おもしろ山口学

萩に眠る古写真(後編)-藩主父子とイギリスのキング提督-

攘夷実行からわずか3年。萩藩の変化を物語る1枚の写真を紹介します。

萩博物館で11月20日(日曜日)まで開催中の「幕末明治の人物と風景-藩都萩に眠る古写真から-」の展示の中に、幕末の萩藩主 毛利敬親(もうり たかちか)・元徳(もとのり)(※1)父子の間に、イギリス東洋艦隊司令官キング提督が収まった1枚の写真があります。

撮影は1866(慶応2)年、暮れも押し詰まった12月30日のこと。萩藩とイギリスとの関係を深めるため、藩主をイギリスの要人と会わせようと萩藩士の木戸孝允(きど たかよし)らが動き、軍艦で来航したキング提督を三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)へ招き、酒や料理でもてなし、その後、提督が返礼として藩主父子を自分たちの軍艦へ招いたときのものです。撮影したのはイギリス人でした。

その写真の3年前の1863(文久3)年5月に、萩藩は関門海峡でアメリカの商船などを砲撃する攘夷(じょうい)戦を実行しています。翌1864(元治元)年8月、その報復として来襲した英仏米蘭四国連合艦隊によって、海峡沿いの下関は激しい砲撃を受け、家々は焼かれ、下関の砲台は上陸した連合軍の兵士に占拠されます。その馬関(ばかん)戦争の講和後、萩藩は攘夷論(※2)から開国論へ転換。そして講和からわずか2年後、3人が並んだ写真は、攘夷の旗頭だった萩藩とイギリスとの短期間での接近ぶりを物語ります。

攘夷から開国へ。萩藩の劇的変化に立ち会った長州ファイブ

この写真に収まっている藩主敬親の世子(せいし。跡継ぎ)元徳は、血気にはやる高杉晋作(たかすぎ しんさく)(※3)を戒めるなど、藩主と若い志士たちの間に立って、国事に奔走した人物でした。1869(明治2)年、敬親から家督を相続し、版籍奉還(※4)に伴って山口藩(※5)知事となり、1871(明治4)年の廃藩置県(※6)で藩知事を辞任しました。

ところで、藩主父子とキング提督の会見の際、通訳を務めたのは、萩藩の攘夷実行直後の1863(文久3)年5月、イギリスへひそかに渡った5人の若者(長州ファイブ)(※7)の1人、遠藤謹助(えんどう きんすけ)(※8)でした。藩主父子とキング提督との会見前、その同じ年にイギリスから帰国した遠藤の目に、留学3年の間の萩藩の劇的な変化は、どう映ったのかも気になります。


※1 支藩の徳山藩から敬親の養子に入った。
※2 他国を排撃する思想。
※3 萩藩士。吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生。1862(文久2)年11月、晋作は横浜の外国公使館襲撃を計画したが、元徳が知って中止させ、酒を振る舞って戒めた。
※4 各藩主が領有する土地・民を朝廷に返還したこと。
※5 1868(明治元)年、旧幕府領に府・県を置き、旧大名領は藩として公称。城のある地を藩名とした。
※6 藩制を廃し、全国に府県制度を敷いた。
※7 ほかに伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、井上勝(いのうえ まさる)、山尾庸三(やまお ようぞう)。帰国後、さまざまな分野で活躍。
※8 明治維新後、造幣局で技術者養成に尽力し、日本人による貨幣製造を成功させた。
参考文献
道迫真吾『長州ファイブ物語-工業化に挑んだサムライたち-』2010
『山口県文書館所蔵アーカイブズガイド-幕末維新編-』2010など

▲このページの先頭へ