おもしろ山口学

萩に眠る古写真-松陰没後10年に集い合った男たち-

東京に眠る松陰と、その墓前で1枚の写真に収まった門下生らの波乱の人生を紹介します。

萩博物館では、9月17日(土曜日)から11月20日(日曜日)まで企画展「幕末明治の人物と風景-藩都萩に眠る古写真から-」を開催します。

その展示品の一つに1869(明治2)年10月26日、若林村(現在の東京都世田谷区若林)で行われた吉田松陰(よしだ しょういん)(※1)慰霊祭の写真があります。そこには和装・洋装、あるいは官軍の軍服を着た14人が写っており、幕末維新期に活躍した萩藩士・広沢真臣(ひろさわ さねおみ)、松陰の門下生である前原一誠(まえばら いっせい)や山田顕義(やまだ あきよし)らの姿があるほか、撮影者の小野為八(おの ためはち)(※2)も松陰の門下生でした。

この日から10年前の1859(安政6)年10月27日、松陰は幕府によって江戸伝馬町(てんまちょう)で処刑されました。亡きがらは2日後、木戸孝允(きど たかよし)らによって引き取られ、小塚原回向院(こづかっぱら えこういん)に埋葬され、さらに1863(文久3)年正月、高杉晋作(たかすぎ しんさく)らによって、萩藩下屋敷があった若林村に改葬されました。「禁門の変」(※3)後、墓は幕府によって壊されましたが、1868(明治元)年、木戸らによって修復され、翌年、没後10年を翌日に控え、門下生らが墓前に集まったのが、この写真でした。

その後の波乱と、遺言を守った門下生ら

その後、彼らには、さまざまな波乱の運命が待ち受けていました。広沢は維新後、新政府の中枢で活躍していましたが、1871(明治4)年1月、就寝中に暗殺され、その犯人は分かっていません。

前原は陸海軍制の確立に尽力しましたが、新政府の要人と意見が合わず、辞職して帰郷すると、新政府に不平を持つ士族からリーダーとされて挙兵しますが、敗退(萩の乱)。1876(明治9)年12月、処刑されました。

山田は初代司法大臣となるなど要職を歴任し、現在の日本大学や國学院(こくがくいん)大学の創設にも携わりましたが、1892(明治25)年、兵庫県にある生野(いくの)銀山を視察している最中に急逝します。

山田が亡くなる10年前の1882(明治15)年11月、松陰の墓のすぐそばに門下生らによって神社が建てられました。それが現在の東京都世田谷区若林にある松陰神社(※4)です。松陰は処刑される1週間前、「自分の首は江戸に葬り、家には自分の著述を助けてくれた赤間硯(あかますずり)をまつってほしい」と書き遺(のこ)しており、その遺言どおり、松陰はこの写真の地で眠っています。


※1 萩藩士。多くの志士を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。
※2 維新後、山口県などで公務に就く傍ら、写真術や酪農、バターの製造などに取り組んだ。
※3 1864(元治元)年、萩藩士らと、鹿児島・会津藩(現在の鹿児島県・福島県西部)などの兵が京都御所で戦った。
※4 山口県萩市にある松陰神社は、生家の杉家の隣にあった松下村塾のそばに、1890(明治23)年、松陰をまつるほこらが建てられたのが始まり。
参考文献
『松陰神社所蔵宝物図録』2011
『山口県文書館所蔵アーカイブズガイド-幕末維新編-』2010
松下村塾開塾150年記念誌出版委員会『吉田松陰と塾生たち』2008
『山口県百科事典』1982 など

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