おもしろ山口学

木戸孝允コレクションから-会津藩への思いと新島襄との交友-

写真などから見えてくる孝允の人間味あふれる一面を紹介します。

県立山口博物館では、9月14日(水曜日)から11月13日(日曜日)まで「薩長連合と木戸孝允(きど たかよし)」(※1)を開催します。県立山口博物館には、ご子孫から県に寄贈された81点の木戸家資料があり、その中から約30点が展示されます。

薩長連合締結(※2)に尽力するなど、明治維新の立役者となった木戸。幕末・維新の動乱で、師や仲間(※3)を数多く失い、彼らの死を悼んだ木戸の心は、藩を超えた人々へも向けられました。1868(明治元)年9月、会津若松城(※4)が落城した際には、家々が焼失し、自刃した人、子どもも老人も刃(やいば)に倒れた姿があることを木戸は聞き、「不堪哀痛之至也(あいつうのいたり たえざるなり)(※5)」と日記(※6)につづっています。

実はうっかり者?写真の裏側のもう一つの顔

木戸は1871(明治4)年11月から1873(明治6)年7月まで、岩倉具視(いわくら ともみ)(※7)全権の米欧使節団に副使として参加し、そのときロンドンで撮影された肖像写真があります。写真の裏には「癸酉(きゆう)五月廿六日 西新島老兄 木戸孝允」と木戸の自筆で記されており、癸酉の年である1873(明治6)年5月には、木戸はドイツにおり、老兄と敬称を付けた人物に、その写真を贈ろうとしたようです。

では「西新島」とは誰なのでしょう。どうやらそれは同志社大学の創立者として知られる新島襄(にいじま じょう)のようです。新島は現在の群馬県出身で、1864(元治元)年にアメリカへ密航し、現地の大学を卒業し、1872(明治5)年、アメリカを訪問中の岩倉使節団に随行することになります。そうした中で新島と木戸は出会います。木戸は2月24日付けの日記に「今日西島始て面会す。同人七八年前学業に志し脱て至此国、当時已に大学校を経、此度文部の事にも着実に尽力せり、可頼の一友なり(※8)」と書いており、この訪米・訪欧で教育制度などを学んでいた木戸は新島と話が弾んだようです。

『木戸孝允日記』によれば、木戸は新島のことを度々「西島」と間違えて書いています。このときも木戸はうっかり西島と書き始めて間違いに気付き、西新島と続けたのでしょうか。写真は木戸家に所蔵されていたことから、実際には新島へ贈られなかったと考えられます。幕末から藩を超えた幅広い人脈と豊かな才覚で新しい時代を切り開いていった木戸。この写真は愛きょうある意外な木戸の一面を伝えてくれます。


※1 書状や写真、硯(すずり)などの愛用品を展示。
※2 1866(慶応2)年1月、萩藩と鹿児島藩の間で結ばれた盟約。
※3 藩校「明倫館」で教えていた吉田松陰(よしだ しょういん)、および、その門下生。門下生は木戸を兄のように慕っていた。
※4 現在の福島県会津若松市にあった城。
※5 「その哀しみや痛みは耐えられない」といった意味。
※6 日本史籍協会編『木戸孝允日記』。
※7 公家。維新後、新政府の首脳部の1人になった。
※8 「きょう初めて西島に面会した。西島は7、8年前、学問を志して日本を脱してアメリカに来て、すでに大学を卒業し、このたびは教育制度のことにも着実に尽力している。頼れる友だ」といった意味。

参考文献
伊原慎太郎「ふるさとに帰ってきた資料から見る木戸孝允」『長州維新の道【上巻】赤間関街道 中道筋 攘夷戦争と長州藩の足跡』2011など

▲このページの先頭へ