おもしろ山口学

萩藩絵図方の独創的で華麗な絵図類(後編)-萩から江戸まで23帖にも及ぶ街道図の大作「行程記」-

表紙から開けば「上り」、裏表紙から開けば「下り」。独創的で優れた絵図を紹介します。

萩藩絵図方(えずかた)(※1)による優れた絵図類に「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」(※2)と並ぶ街道絵図の傑作として「行程記」があります。行程記は萩から江戸までの主要街道、山陽道・東海道・中山道(なかせんどう)を全23帖(じょう)にわたって描いた大作で、日本海側の城下町・萩と瀬戸内海側の三田尻(現在の防府市)とを結ぶ街道「萩往還(はぎおうかん)」も描かれています。

形は折本(おりほん)(※3)仕立てで、最もユニークな特徴は、往復両用の趣向が凝らされていることです。表紙に貼られた白い紙に「従阿武郡萩唐樋札場(あぶぐん はぎ からひ ふだば より) 至周防国佐波郡三田尻(すおうのくに さばぐん みたじり へ いたる) 登り一」とある方から開けば「上り」。一方、同じ帖の巻末に貼られた赤い紙に「従周防国佐波郡三田尻 至阿武郡萩唐樋札場 下り七」とある方から、上下逆さにして開けば「下り」となっているのです。

また、寺社や名所などから赤い「引き出し線」が描かれ、線の先には、寺社や名所の由来が記されています。例えば、現在の山口市を描いた絵図で、雲谷庵(うんこくあん)からの引き出し線の先には「雲谷庵 今 雪舟(せっしゅう)屋敷ト云(いえ)リ 往古 雪舟 此所(ここ)ニ居住ト云リ(※4)」と記されています。そうした由来書きや地名、各種の情報が随所にあり、上下双方向から記されているのも行程記の特徴です。

国境を越えると変わる一里山の記号

23帖の行程記は御国廻御行程記の作成者・有馬喜惣太(ありま きそうた)(※5)をはじめ複数の人物によって、1764(明和元)年から1789(寛政元)年にかけて作成されたものでは、と推測されています(※6)。

御国廻御行程記と同様、印判を使った記号で一里山(※7)が記されており、特に興味深いのは、一里山の記号が地域の実態に即して描き分けられていることです。一里山の記号は国境の小瀬川(おぜがわ)(※8)を挟んで、萩藩領側では、石や土を盛った塚の上に、距離を記した木の杭を立てた萩藩が定めた形のもの、広島藩側では、塚に樹木が植えられたものとなっています。

現代の地図にも通じる、優れたアイデアが盛り込まれた萩藩の絵図。実用性に知恵を絞った先人たちの情熱に、尊敬の念を覚えずにはいられません。


※1 藩政に必要な地図や地誌の情報収集・作成などを担った部署。
※2 藩主の御国廻りの道筋を描いた、全7帖の街道絵図。
※3 横に長くつないだ紙を等間隔で折り畳んで作った本。
※4 「雲谷庵 今、雪舟屋敷という。昔、雪舟がここに居住していたという」という意味。室町時代、画僧雪舟は、京都から山口へ移り住んでいた。
※5 絵図の作成を家業として代々仕えた藩士と異なり、彼は絵図方に雇用後、才能が認められ、彼のために設けられた「郡方地理図師(こおりかたちりずし)」として藩士に登用された。1769(明和6)年に死去。
※6 川村博忠「近世道中絵図『行程記』の内容と成立時期」『山口県地方史研究』55 1986による。
※7 一里塚。街道に一里(約4キロメートル)ごとに石や土を盛り、その上に塚木を立てたもの。
※8 現在の山口県和木町と広島県大竹市などの間を流れる川。

参考文献
山田稔「近世街道絵図『行程記』の路線図について」『山口県文書館研究紀要』36 2009
同「『一村限明細絵図』清図の記号について」同34 2007
川村博忠「近世防長の絵地図の世界」『絵図でみる防長の町と村』1989など

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