おもしろ山口学

山口県のクジラ文化(後編)-山口県が生んだ日本の近代捕鯨の父-

岡十郎らが創設した捕鯨会社が日本最大の捕鯨会社となったことなどを紹介します。

捕鯨は江戸時代、鯨組(くじらぐみ)(※1)によって行われていました。しかし、クジラの捕獲には多額の資金が必要なため、萩藩では、鯨組の運営を支え、時には藩直営にしてまで捕鯨を維持しました。その背景には、クジラは食料としてだけでなく、鯨油(げいゆ)が米作りの害虫駆除に欠かせず(※2)、飢きんを防ぐ上でも鯨油の確保が非常に重要だったことがありました。ほかにも、鯨骨は肥料や裁縫用のヘラに加工するなど、ひげも含めて、クジラは捨てるところなく、さまざまな道具に加工されて使われました。

海外では明治維新後、ノルウェー式捕鯨法(※3)による大規模な捕鯨が行われるようになり、日本でもこの捕鯨法を本格的に導入した近代捕鯨会社「日本遠洋漁業株式会社」が創設されます。創設者は山口県出身の岡十郎(おか じゅうろう)と山田桃作(やまだ とうさく)、共に日本の近代捕鯨の父と呼ばれる人物です。

クジラが沖を回遊する山口県で育まれた歴史と文化

岡は1870(明治3)年、現在の山口県阿武町(あぶちょう)で酒造業を営む家に生まれ、現在の萩市福井の酒造家・岡家の養子となりました。萩中学校を卒業後、東京へ出て慶応義塾で学び、卒業して帰郷する際、福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)から、山口県に近い「韓海(※4)の水産業に注目するよう」示唆されたといいます。1899(明治32)年、岡は現在の長門市三隅(みすみ)出身の山田と日本遠洋漁業株式会社を現在の長門市仙崎で創設します。捕鯨砲に習熟したノルウェー人砲手を採用し、農商務省(※5)嘱託として自らノルウェーへ行って捕鯨方法を学び、用具も調達します。さらに、当時の韓国政府から韓海での操業許可を得たことが功を奏し、その会社は日本で初めて経営的に成功した近代捕鯨会社となり、その後、日本最大の捕鯨会社(※6)に成長していったのでした。

捕鯨は命懸けであり、その無事などを願い、板の代わりに、クジラのひげに汽船捕鯨船を描いて神社に奉納された絵馬が、山口県に残っています(※7)。また、県内には、一年の節目である大みそかや節分の夜にクジラを食べて、その豊かな生命力をありがたくいただいて、「大きく年を取ろう(※8)」という風習があります。昔から沖をクジラが回遊していた地域だからこそ育まれたクジラ文化は、今も大切に受け継がれているのです。


※1 数百人からなる組織。クジラを網に追い込み、モリで突いて捕える網掛け突き取り法などで捕獲した。
※2 田に鯨油を注いで油膜を作り、稲から払い落とした虫を溺死させたり、鯨油を入れた水を稲に掛けて虫を飛べなくしたりした。県内では、1950年代まで行われていた。
※3 鯨を追跡する鋼製汽船とノルウェー式捕鯨砲などを使う捕鯨法。
※4 朝鮮半島近海。
※5 明治から大正にかけて、政府で農林水産業・商工業などを所管した省。
※6 全国各地の捕鯨会社との合併などを繰り返し、日産コンツェルン傘下に入った後、萩市出身の田村市郎(たむら いちろう)を創業者とする現在の日本水産株式会社と合併。
※7 萩市須佐歴史民俗資料館蔵など。
※8 一年を元気で過ごそう、といった意味。

参考文献
清水満幸『萩ものがたりvol.30 萩・北浦のクジラ文化』2011

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