おもしろ山口学

山口県のクジラ文化-明治維新のきっかけはクジラだった?(前編)-

ペリー来航や松陰とクジラについての話を紹介します。

萩博物館では、6月19日(日曜日)まで、企画展「萩・北浦のクジラ文化-西日本最大捕鯨漁場の軌跡-」を開催中です。その展示は、クジラと私たちの歴史・文化との密接で意外な関わりについて教えてくれます。

幕末の1853(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に現れ、日本に開国を求めました。その強硬な態度に屈して、翌年3月3日、幕府がアメリカと日米和親条約を結んだことが、倒幕への引き金となったことは、よく知られています。条約締結の約30年前、アメリカの捕鯨船は、日本近海で大捕鯨場(※1)を発見し、灯火(とうか)用や潤滑油用として鯨油(げいゆ)を得るため、盛んに日本近海で操業するようになっていました。捕鯨船の安全な操業には、燃料や食料の補給地、難破した際の救助などが欠かせず、ペリーが日本に開国を求めた目的の一つは、その確保のためでした。明治維新のきっかけは、クジラだったといえるかもしれません。

藩主も、獄中の松陰も、クジラを食べていた

吉田松陰(よしだ しょういん)(※2)が、列強の実情を知るため、伊豆半島下田沖で停泊中のペリーらの軍艦で、アメリカへ密航しようとして失敗したのは、日米和親条約締結後の1854(安政元)年3月27日のことでした。松陰はその後すぐ番所に自首し、10月末、萩へ送られ、野山獄(のやまごく)に収監されます。11月に獄中の松陰と兄との間で往復書簡が交わされており、書簡には、兄が松陰に鯨肉などを差し入れたことや、「鮮肉(=鯨肉)食ひ尽(つく)して僅(わず)かに磁器を余す(※3)」と松陰の喜びが伝わってくる感謝の言葉が記されています。

萩藩では当時、晩秋から春にかけて日本海沿岸を回遊するクジラを対象に、鯨組(くじらぐみ)(※4)による漁が行われ、鯨組を藩は保護していました。クジラが捕獲された際には、赤身などを殿様御上料(おあがりりょう)(※5)として、いつものように五十鈴御殿(いすずごてん)(※6)の厨房(ちゅうぼう)に届ける、と藩の役人が記した文書(※7)が残っています。また、鯨肉は藩主への上納と同じように、主立った家臣や、鯨組がある地元の人々にも分配されていました。

萩博物館の展示は、明治維新とクジラとの意外な関係、藩主も家臣も庶民にも鯨肉は親しまれていたこと、そして松陰を思う家族の愛情までも伝えてくれます。


※1 アメリカの捕鯨船が太平洋で1820年代に発見したマッコウクジラの大捕鯨場は「ジャパングラウンド」と呼ばれた。日本海側でもセミクジラを大量に捕獲。
※2 萩藩士。1855(安政2)年に野山獄から出されて実家の杉家で幽囚された後、多くの志士を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。
※3 「鯨の刺し身を食べ尽くし、皿を残すのみでした」といった意味。ほかに鯨肉の差し入れへの返礼が記された書簡が2通。
※4 数百人からなる組織。クジラを網に追い込み、モリで突いて捕える網掛け突き取り法などで捕獲した。
※5 殿様に上納するもの。
※6 幕末の1863(文久3)年5月、山口の伊勢門前(現在の県庁近く)にあった、伊勢大神宮(現在の山口大神宮)の大宮司宅を藩主毛利敬親(もうり たかちか)の世継ぎ定廣(さだひろ)=元徳(もとのり)夫人の居館としたもの。
時山弥八著・大正5年発行『もりのしげり』による。
※7 湯川家文書(萩博物館蔵)

参考文献
清水満幸『萩ものがたりvol.30 萩・北浦のクジラ文化』2011

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