おもしろ山口学

殿様の小姓が見た明治維新

萩藩主に信頼され、薩長の橋渡し役などを務めて、激動期の藩を陰で支えた人物を紹介します。

山口市歴史民俗資料館では、幕末の萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)の小姓(※1)を務めた河北一(かわきた はじめ)を紹介する企画展「殿様の小姓が見た明治維新 長州藩士(※2)河北一とその周辺」を5月8日(日曜日)まで開催中です。

河北は1833(天保4)年、萩藩士の家に生まれました。黒船の来航を機に海防の危機感が高まる中、22歳の時、藩命により海岸警備の一員として相模(さがみ)へ赴き、その間、江戸へも足を延ばして剣術を修業し、また、26歳の時には、長崎で西洋陸軍の銃陣(※3)も学ぶなど向学心が旺盛で、29歳の時、藩主の小姓となります。

小姓となった河北は出世を重ね、1865(慶応元)年5月、藩主の使いとして各支藩を訪ね、岩国の領主・吉川経幹(きっかわ つねまさ)にも会って討幕を決意させるなど、藩主の厚い信頼をもとに活躍します。長州と幕府側とが戦った幕長戦争(四境戦争)(※4)後の1866(慶応2)年11月には、副使として、正使・木戸準一郎(きど じゅんいちろう)(※5)と鹿児島藩へ。そのとき2人は藩主から託された、たくさんの干しハマグリを持参し、鹿児島藩に喜ばれたといいます(※6)。

御具足祝式図に込められた思い

1869(明治2)年、河北は藩主の最もそばで仕える「番長(※7)」に昇進します。2年後、敬親は死去しますが、河北はその後も敬親を慕い続けます。その証しともいえるのが、河北が晩年、画家に頼んで幕末のある儀式を描かせた「御具足祝式図(おぐそくいわいしきず)」(※8)です。

具足祝とは、正月、甲冑(かっちゅう)に供えた鏡餅を割って分かち合う武家の儀式のことですが、太平の世が続く中、萩藩では途絶えてしまっていました。それを幕末の1864(文久4)年1月(※9)、復活させたのが敬親でした。折しも前年は関門海峡での攘夷(じょうい)戦の決行、8月18日の政変による京都からの追放(※10)と萩藩の状況が激変した年でした。窮地の中で新年を迎えた敬親は、苦難に立ち向かう藩の決意を示すため、具足祝をあえて復活させたのでしょう。

その日から数十年の歳月が流れ、かつての意義深い儀式が再び忘れられていくことを残念に思った河北は、絵として残すことを思い立ち、当時を知る人々への聞き取りを重ね、数年がかりで完成させ、1903(明治36)年、毛利家へ献上したのでした。その絵に描かれた列席者の下座には、当時小姓として給仕を務めた河北の姿がありました。時代が変わっても、主君を、そして維新の志を忘れまいとした河北のあつい思いが伝わってきます。

※1 主君のそばに仕えて雑用をつかさどる人。
※2 諸説あるが、長州とは、萩藩やその支藩を含む呼び方(現在の山口県)。
※3 銃隊で組織した陣。
※4 幕府側が敗退。維新への大きなきっかけとなった。
※5 後の木戸孝允(たかよし)。
※6 ハマグリは同じ貝殻同士しか合わないことから和合の象徴とされる。
※7 1868(明治元)年、御奥番頭(おおくばんがしら)から改称。
※8 毛利博物館蔵。下絵などは山口市歴史民俗資料館蔵。
※9 2月20日から元治改元。
※10 萩藩を支持していた朝廷の態度が急変し、萩藩は7人の公卿(くぎょう)らと京都を追放された。

参考文献
木戸公伝編纂所『松菊木戸公伝』1927など

▲このページの先頭へ