おもしろ山口学

守護大名 大内氏の食文化

第2回:記録と発掘成果から将軍御成(おなり)献立再現へ

足利義稙(あしかが よしたね)や毛利元就(もうり もとなり)をもてなした宴(うたげ)の記録などについて紹介します。

1500(明応9)年、大内義興(おおうち よしおき)は、京都を追われた前将軍の足利義稙(※1)を山口の大内氏館に招き、盛大な宴でもてなしました。その時の献立記録(※2)によると、義稙に対し31を超える膳が出されています。確認できる料理名は110以上に及び、中世で最大級の宴でした。ちなみに、義稙は14時頃に館に入り、帰ったのは朝4時頃だったことも記されています。

献立の内容は刺し身・焼き物・汁物・干物・めん類など。中には、当時最高級の食材とされたツルの煎り物(いりもの)や、イルカの汁物、江戸時代に長州名物となるサバの背わたの塩辛(※3)など、珍しいものが数多く記されています。

昨年9月には、そのほぼすべての献立が山口市で再現されました。室町時代、砂糖はまだ一般的ではなく、しょうゆもありませんでした。食文化史研究家の江後迪子(えご みちこ)さん(※4)の監修のもと、甘みにはハチミツを用いるなど、当時の料理秘伝書に忠実な味を目指した献立の再現は大きな話題となりました。

当時、正式な宴に欠かせなかった「雑煮」は、たれ味噌(※5)などで調味した汁に、具は小さなサトイモに餅を重ね、干しナマコやカツオの生節(なまぶし)(※6)を添えたもの。「ようかん」はくず粉に水・塩・ハチミツを加えて練ったもの。このように当時の献立の中には今と異なるものもあります。

中世の食文化解明の大きな手掛かり

大内氏の宴については、義隆(よしたか)(※7)が毛利元就(※8)をもてなした時の記録 (※9)も残っています。その記録は、料理を盛った土師器皿(はじきざら)や膳の種類、膳に各皿を置く位置も記述され、皿はサイズ別に「五度入(ごどいり)」「あいのもの」「三度入」「大中(おおじゅう)」「小中(こじゅう)」などと呼ばれていたことが分かります。

実際に大内氏館跡からは、4から6種類のサイズに分かれる土師器皿が発掘されており、記録の記述と対応します。

これまで土師器皿の作り分けの研究は行われていましたが、料理による使い分けの実態はほとんど分かっていませんでした。しかし、大内氏の場合、文献と発掘成果の双方から、どんな皿にどんな料理が盛り付けられていたかが分かり、大変貴重だといえます。

大内氏の盛大な宴は、西国一を誇った大内氏の力だけでなく、中世の食文化を解明する上でも多くのことを教えてくれます。

※1 義興は義稙を約8年間山口で擁護した後、共に上洛し、将軍の座に復職させた。
※2 「明応九年三月五日将軍御成雑掌(ざっしょう)注文」(県文書館及び毛利博物館蔵)。
※3 現在は作られていない。深みのある辛さで、カツオの内臓の塩辛「酒盗(しゅとう)」に似る。
※4 元 別府大学短期大学部教授。著書は参考文献を参照。
※5 みそに水を加えて煮詰め、袋でこしたもの。
※6 カツオの薫製。
※7 義興の子。
※8 安芸国(あきのくに。現在の広島県)の領主。当時、大内氏の支配下にあった。
※9 「元就公山口御下向之節饗応次第(ごげこうのせつきょうおうしだい)」(県文書館蔵)。

参考文献
江後迪子『萩藩毛利家の食と暮らし』2005
同『信長のおもてなし』2007
北島大輔「大内氏は何を食べたか」『動物と中世 獲る・使う・食らう』2009
山口名物料理創出推進会議『明応九年三月五日将軍御成献立』2011など

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