おもしろ山口学

江姫の時代の毛利家-長府藩祖 毛利秀元-

第2回:茶人大名として将軍家光との絆を築いた秀元

秀元が萩藩主の後見役として、また、大茶会などを催して江戸で活躍したことを紹介します。

中国地方8カ国を領有していた毛利輝元(もうり てるもと)は、関ヶ原の戦い後、徳川家康(とくがわ いえやす)から領地を周防・長門のみに削減されます。輝元は、城を萩に築くこととし、萩藩初代藩主に幼い長男の秀就(ひでなり)を立てますが、秀就は人質として江戸で過ごすことになります。そうした中、毛利秀元(ひでもと)(※1)は、支藩・長府藩の藩主となり、岩国の領主となった吉川広家(きっかわ ひろいえ)(※2)と、毛利一門を東西で支える役目を担います。

やがて輝元は、家の存続に関わる行儀作法などを秀就に注意する後見役として、秀元に江戸勤めを依頼します。秀元は、江戸で幕府との交渉役も務め、また、家康の養女と再婚し、1625(寛永2)年には、江姫(ごうひめ)を母とする3代将軍家光(いえみつ)の御咄衆(おはなししゅう)(※3)となって、幕府から信頼を深めます。

その一方で、萩藩の政治をも代行していた秀元は、秀就の元・後見役を江戸から追放するなど、自らの政治基盤を確立するため、辣腕(らつわん)を振るいます。その結果、秀元と秀就の対立が深刻化すると、秀元は長府藩の独立(※4)に向けて、同じく支藩の徳山藩と動き始めます。それに対して萩藩は、幕府に斡旋を図り、その結果、長府藩と徳山藩は萩藩主からの「内分知」(※5)としての領地を持つ支藩である、という関係が幕府によって確定し、独立は実現しませんでした。

大茶会の功績で拝領した江戸長府藩邸は今、六本木ヒルズの敷地に

ところで、秀元は以前から茶人としても知られていました。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から唐物(からもの)の名品「茶壷 玉蟲(ちゃつぼ たまむし)」(※6)を拝領し、また、古田織部(ふるた おりべ)(※7)ら一流の茶人とも深く交遊していました。

1640(寛永17)年、秀元は徳川将軍家の別邸・品川御殿で、家光に献茶する大茶会を催します。唐物名物などを用いた趣向を凝らした茶会を、家光は賞賛。その功績により、秀元は、家光から麻布日ヶ窪邸(あざぶひがくぼてい)を拝領し、それが「江戸長府藩邸」に。そして現在、その地が六本木ヒルズの敷地となり、その大半を占めています。

※1 毛利元就(もとなり)の四男・元清(もときよ)の子。
※2 元就の三男・元春(もとはる)の子。
※3 政治談議などを務めた。
※4 将軍から領地を確定する朱印状(朱印が押された文書)を、支藩が直接もらうこと。
※5 分知とは、領地を分割相続すること。内分知は、将軍からの朱印状がない分知。
※6 日明貿易で渡来し、将軍足利義政(あしかが よしまさ)が所持した「東山名物」の一つ。
※7 秀吉・家康に仕えた武将で、千利休(せんのりきゅう)に茶道を学んだ。

参考文献
下関市立長府博物館『長府毛利十四代記』2011
田中誠二「萩藩の本・支藩関係」『山口県地方史研究61』1989
同「毛利秀元論-萩藩初期政治史研究序説-」『山口県地方史研究62』1989など

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