おもしろ山口学

江姫の時代の毛利家-長府藩祖 毛利秀元-

第1回:毛利家の後継者 秀元、戦国武将としての活躍

毛利家の後継者として秀元が秀吉に重用され、活躍したことを紹介します。

下関市立長府博物館では、2月27日(日曜日)まで企画展「長府毛利(ちょうふ もうり)十四代記」を開催中です。そこでは、萩藩の支藩・長府藩の歴史が紹介され、中でも豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)や徳川家康(とくがわ いえやす)などの天下人から重用された長府藩の藩祖・毛利秀元(ひでもと)を中心に、今年の大河ドラマの主人公、江姫(ごうひめ)の時代の毛利家の歴史を知ることができます。

秀元(幼名は宮松丸)は1579(天正7)年、中国地方8カ国を領有した毛利元就(もとなり)の孫として生まれました(※1)。毛利家の家督を継いだ、いとこの輝元(てるもと)(※2)になかなか長男が誕生しなかったため、宮松丸は輝元の養子となり、1586(天正14)年、秀吉のもとへ人質として赴きます。

その後、秀吉から名前の一字をもらって「秀元」と名乗るようになるなど、秀元は秀吉に気に入られます。秀吉が朝鮮半島出兵のため佐賀に築いた名護屋(なごや)城から大坂へ戻る途中、その船が関門海峡で座礁した際には、秀元が船で駆け付け、秀吉を救助。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)(※3)の最中、輝元が病気で朝鮮半島から帰国することになった際には、輝元の代わりとして秀元が朝鮮へ出陣し、毛利全軍を率いました。さらに、秀元は秀吉の養女を妻に迎え、輝元の後継者の道を進みます。

輝元に長男誕生、別家・独立へ

ところが1595(文禄4)年、輝元に待望の長男・秀就(ひでなり)が誕生します。秀吉は輝元に秀元の別家(※4)を勧めますが、どの領地を与えるかで毛利家中に動揺が生じ(※5)、別家が実現しないうちに秀吉が死去。亡き秀吉の意向を実行するよう家康から迫られた輝元は、1599(慶長4)年6月、長門国など約18万石(※6)を秀元へ与えて別家させ、これにより、輝元の後継者は秀就と確定します。

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い(※7)が起きると、秀元は西軍の盟主となった輝元の名代として毛利軍を指揮し、近江方面を攻略するなど目覚ましい活躍をします。

しかし、吉川広家(きっかわ ひろいえ)(※8)が毛利家の領地保全などを求めて、徳川方とひそかに和平交渉を行って兵を動かさなかったことなどにより、西軍は敗退したのでした。

※1 元就の四男・元清(もときよ)の子。
※2 元就の長男・隆元(たかもと)の子。
※3 1592(文禄元)年、1597(慶長2)年、秀吉の朝鮮出兵。
※4 別に家を興すこと。
※5 豊臣側からの案のほとんどは吉川広家の領地。
※6 長門国(現在の山口県西部)、周防国吉敷郡(山口市)、父元清が遺した領地(広島県廿日市町など)。
※7 1600(慶長5)年。東軍の盟主は家康。
※8 元就の三男・元春(もとはる)の子。

参考文献
下関市立長府博物館『長府毛利十四代記』2011
田中誠二「萩藩の本・支藩関係」『山口県地方史研究61』1989
同「毛利秀元論-萩藩初期政治史研究序説-」『山口県地方史研究62』1989など

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