おもしろ山口学

幕末に築かれた「山口御屋形(山口城)」

幕末、城を萩から山口へ移した萩藩。どんな城だったのかを紹介します。

現在山口県庁(山口市滝町)が建つ地は、幕末、藩主が住む山口御屋形(おやかた)・山口城が築かれた地。城を萩から山口へ移した背景は、萩藩が1862(文久2)年7月、藩の方針を攘夷と決めたことに始まります。10月には、城地を検討し始め、12月、萩藩江戸屋敷(※1)の縮小を幕府に報告し、その用材を萩藩へ回漕します。幕府によって、攘夷決行の期日が1863(文久3)年5月10日と決まると、4月、藩主は日帰りの湯治と称し、萩から山口の御茶屋(山口市中河原)へ入り、そのまま留まります。

5月、萩藩は関門海峡で攘夷戦を決行し、藩主の山口移住と新しい御屋形の造営を幕府へ申請します。表向きの理由は、攘夷戦の指揮・号令を領国の中央部から行うためでしたが、萩城が日本海に面し、海からの攻撃に耐え難かったためとも考えられます。そして7月、城地を決めると、御屋形建築のため、萩城の一部を解体して山口へ運び始めます。

しかし、尊王攘夷派の旗頭だった萩藩は「8月18日の政変」(※2)で京都から追放され、さらに翌1864(元治元)年には「禁門の変」(※3)で敗れ、幕府から征討令を出されます。そうした窮地の中で、10月、御屋形は竣工。藩内では、一転して保守派が政権を握り、藩主父子は萩城へ退去。11月には、幕府から征討中止の条件として、山口城の破却などを命じられ、萩藩は竣工したばかりの御屋形を自ら打ち壊します。

その後、藩内で攘夷派が政権を奪回。藩主は再び山口へ移鎮し、御屋形は1866(慶応2)年5月、2度目の竣工を迎えたのでした。

封建時代の城ではない、戦いを見据えた西洋式城郭だった

詳細に作成された当時の絵図(※4)を見ると、山口御屋形は、天守閣がそびえる前時代的な城ではなく、大砲を据えて敵に備えるため、八角形に近い敷地の西洋式城郭として造られたことが分かります。北と西の2つの山(※5)を天然の要害とし、堀や土塁をめぐらし、その中に築かれた一部二階建ての御屋形は、明治から大正初期まで藩庁・県庁として使用されました。

敷地内には、今も当時の堀や土塁、石垣の一部、旧山口藩庁門(※6)が残り、攘夷、討幕へと揺れた萩藩の動乱の幕末期を教えてくれます。

※1 江戸城桜田門外にあった萩藩上屋敷。
※2 萩藩は御所の警備の役目を解かれ、尊王攘夷派の7人の公卿とともに京都を追放された。
※3 再起を図ろうとした萩藩士らと、鹿児島・会津藩(現在の鹿児島県・福島県西部)などの兵が京都御所で戦った。
※4 県文書館蔵、県立山口博物館蔵の絵図がある。設計図と見られるが、作成年は不明。
※5 西側の山は今はなく、県庁駐車場となっている。
※6 旧藩庁門は明治以降の築造説がある。

参考文献
山田稔「史料紹介 山口御屋形図について」『山口県立山口博物館研究報告14』1988
桑原邦彦「山口城の絵図・差図と縄張について」『山口県地方史研究95』2006、同「文久の山口移鎮と山口城に関わる諸問題」『山口県地方史研究91』2004など

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