おもしろ山口学

幕末、近代化に挑んだ長州人の挑戦の軌跡-世界遺産候補 萩の近代化産業遺産-

第4回:近代化を支えた専門家たち

西洋の知識・技術の振興に貢献した、萩藩出身のさまざまな人々を紹介します。

幕末の萩藩には、大砲や軍艦以外にも近代化を推進した、さまざまな人々がいました。

天保年間(1830-1843年)に萩藩の改革を行った村田清風(むらた せいふう)は、黒船来航前から日本近海に現れ始めた異国船に危機感を持ち、海防の必要性から蘭学者と親交を深めていました。村田の尽力で、萩藩は江戸で活躍中の蘭方医・青木周弼(あおき しゅうすけ)(※1)を召し抱え、周弼の進言で「医学稽古場(けいこば)」を開設。さらに周弼の弟の研蔵(けんぞう)ら萩藩出身の蘭方医を江戸から呼び戻し、海防に必要な蘭書を翻訳させます。周弼はイギリスの歴史書を翻訳し、1861(文久元)年、幕末の日本で最高水準の英国歴史書『英国志』を出版するなど、さまざまな功績を残しました。

中島治平と松陰

製鉄・ガラス・蒸気機関・羊毛織物・染色・写真術・火薬・パンなど、幅広い技術を萩藩にもたらした中島治平(なかしま じへい)も特筆されます。中島は、朝鮮通詞(※2)の父から朝鮮語や漢学などを、画家の森寛斎(もり かんさい)(※3)から絵を学んだ多才な人でした。黒船来航後、長崎へ行き、オランダ人(※4)から化学や蒸気機関学、製鉄などを学び、帰藩後は藩に鉄工局の開設を建白。1860(万延元)年、萩藩のガラス製造所見合役(みあいやく)となり、1863(文久3)年には、攘夷戦で関門海峡に沈んだ「壬戊丸(じんじゅつまる)」(※5)の引き揚げに成功します。翌年、製鉄所が設立され、その設立は、建白していた鉄工局の構想の一部が実ったものといえるかもしれません。1866(慶応2)年、やはり建白を重ねていた念願の舎密(せいみ)(※6)局が設立されながら、同年12月、中島は夢半ばの44歳で病死します。

吉田松陰(よしだ しょういん)の存在も忘れることはできません。松陰は、人材育成を国の振興の根本に据え、工学の教育施設の設立を訴えていました。松陰の松下村塾からは、明治維新後の官営長崎造船所初代所長・渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)、東京職工学校(現在の東京工業大学)初代校長・正木退蔵(まさき たいぞう)らを輩出。松陰は、日本の産業の近代化にも大きな役割を果たしたのでした。

※1 現在の山口県周防大島(すおうおおしま)町出身。
※2 萩藩に仕えた朝鮮語の通訳。漂流民の救助・送還に当たった。
※3 萩藩出身。京都画壇の中心的な存在となった。
※4 1858(安政5)年設立、長崎海軍伝習所(第二次オランダ教師団)の医師ポンぺや長崎製鉄所の技師ハルデスなど。
※5 イギリスの商人から購入した鉄製蒸気船。
※6 化学のこと。

参考文献
道迫真吾『萩の近代化産業遺産ー世界遺産への道ー』(萩ものがたりvol.24)2009
小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』1998 など

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