おもしろ山口学

幕末、近代化に挑んだ長州人の挑戦の軌跡-世界遺産候補 萩の近代化産業遺産-

第3回:洋式軍艦建造への挑戦

幕府の専門家に学んだ桂小五郎の建白から洋式軍艦建造の道が開かれたことを紹介します。

萩漁港の北東の岬に、ユネスコ世界遺産の暫定リストに記載された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補、「恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所跡」があります。

黒船来航3カ月後の1853(嘉永6)年9月、幕府が大船建造の禁令を解いたのを受け、薩摩藩や水戸藩などはいち早く軍艦の建造に着手しましたが、萩藩は幕府から命じられた相模(神奈川県)警備に多大な経費を要し、着手できずにいました。

そんな中、1854(安政元)年11月、安政東海地震が起き、伊豆半島下田沖で停泊中のプチャーチン(※1)率いる木造帆船のロシア軍艦が大破・沈没します。プチャーチンは代船として、1855(安政2)年3月、伊豆の戸田(へだ)村(現在の静岡県沼津市)で、日本の船大工の協力を得て、日本初の本格的な洋式帆船「ヘダ号」を完成させます。

萩藩初の洋式軍艦「丙辰丸」

その時折しも萩藩士の桂小五郎(かつら こごろう)が相模警備に赴いていました。桂は、浦賀奉行所与力(ぶぎょうしょよりき)中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)(※2)から軍艦建造について学んでおり、ロシア軍艦の情報も収集。これを機に桂は、戸田の船大工を招いて洋式軍艦を造るよう萩藩に意見書を出します。

1856(安政3)年1月、桂の意見書が通り、萩藩は三田尻(みたじり。現在の防府市)の船大工棟梁(とうりょう)・尾崎小右衛門(おざき こえもん)を江戸へ派遣します。尾崎は、ヘダ号の設計図を基に同型の幕府の船を造った棟梁らと面談。その棟梁や戸田の船大工を、桂や家老の浦靫負(うら ゆきえ)らの尽力で、萩へ招いて恵美須ヶ鼻軍艦製造所を開き、1857(安政4)年3月、萩藩は、初の洋式帆船の軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」を竣工させます。

さらに萩藩は、長崎でオランダ人から造船を学んだ藤井勝之進(ふじい かつのしん)(※3)を設計者として2隻目の建造に着手し、1860(万延元)年8月、「庚申丸(こうしんまる)」が竣工します。

しかし、欧米列強は、すでに蒸気船の時代。やがて萩藩は、自力での造船より中古船の輸入(※4)が得策と考え、方向転換していきます。

今は石組みの防波堤だけが残る恵美須ヶ鼻造船所跡。当時ほとんどの藩で、洋式軍艦の建造が不可能だった中での萩藩の挑戦の軌跡を、静かに物語っています。

※1 1854(安政元)年12月、日露和親条約を締結。
※2 ペリー来航時、交渉に当たり、艦船を見学。1854(安政元)年、浦賀造船所で竣工した幕府の日本初大型帆船「鳳凰丸(ほうおうまる)」造船の総指揮も務めた。
※3 萩藩お抱えの大工。萩藩から、1855(安政2)年6月に浦賀へ派遣され、桂の紹介で中島から造船を学び、1856(安政3)年11月、オランダ人士官を教師とした長崎海軍伝習所へ派遣され、造船を学んだ。
※4 イギリスの商人から、1862(文久2)年9月、鉄製蒸気船「ランスフィールド」(壬戌丸。じんじゅつまる)、翌年3月には木造帆船「ランリック」(癸亥丸。きがいまる)を購入。

参考文献
道迫真吾『萩の近代化産業遺産ー世界遺産への道ー』(萩ものがたりvol.24)2009
小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』1998 など

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