おもしろ山口学

幕末、近代化に挑んだ長州人の挑戦の軌跡~世界遺産候補 萩の近代化産業遺産~

第2回:萩反射炉は試験炉だった?

近年、明らかになった萩反射炉築造への試行錯誤の過程を紹介します。

ユネスコ世界遺産の暫定リストに記載された「九州・山口の近代化産業遺産群」。その構成資産候補の1つに「萩反射炉」があります。
 反射炉とは、硬くてもろい鉄を強靭(きょうじん)な鉄に変えることを目的に西洋で開発された金属溶解炉。日本では、青銅製に代わる鉄製の大砲を造るため、佐賀藩や薩摩藩、伊豆韮山(にらやま)代官所、萩藩など全国11カ所で建設されたといいます。

しかし、現在は萩反射炉と静岡県の「韮山反射炉」の2つが残るのみ。貴重な存在となった萩反射炉は従来、根拠がないまま1858(安政5)年の築造とされてきました。また、韮山反射炉との構造の違いなどから、萩反射炉は本当に実用炉だったのかという声も上がっていました。そんな中、近年、文献の研究を通じ、萩反射炉は試験炉だったという説が発表され、今、それが有力となっています。

鉄製大砲鋳造への挑戦

国内で初めて反射炉を建設したのは佐賀藩で、1852(嘉永5)年5月ごろ、鉄製大砲の鋳造に成功します。萩藩は黒船来航2年後の1855(安政2)年8月、萩藩士の藤井百合吉(ふじい ゆりきち)(※1)や大工棟梁の小沢忠右衛門(おざわ ちゅうえもん)ら(※2)を、鉄製大砲の鋳造法を学ばせに佐賀藩へ派遣しますが、佐賀藩からは担当者の不在などを理由に断られます。しかし、小沢は萩藩発明の回転式砲台の模型を佐賀藩主に献上したかわりに反射炉の見学を許され、スケッチをして帰藩します。

萩藩はそのスケッチを基に反射炉を設計し、1855(安政2)年11月、藩士の村岡伊右衛門(むらおか いえもん)(※3)らに反射炉の「雛形(ひながた)」を造って1856(安政3)年には鉄製大砲を完成させるよう命じます。しかし、村岡らは1856(安政3)年11月、「雛形は経費をかけずに造ったが、正式な建設には莫大な経費が必要で、当分中止しては」といった伺いを藩主に立て、認められます。それに対し、藤井は1858(安政5)年3月「反射炉を使って鉄製大砲を造るべき」といった意見書を萩藩に提出。けれども、その後正式な反射炉が造られたという文献は見つかっていません。

萩反射炉は1856(安政3)年築造の試験炉だった。そして欧米列強の脅威から守るため、先人が試行錯誤を重ね近代化へ挑んだ証として、あらためて注目されているのです。

※1 藤井は1858(安政5)年8月、長崎のオランダ人士官を教師とした長崎海軍伝習所へ萩藩から派遣され、砲台築造法を学んだ。
※2 そのほか、吉田松陰(よしだ しょういん)に欧米列強の存在を教えた山田宇右衛門(やまだ うえもん)や、岡義(儀)右衛門(おか ぎえもん)。岡はその後、薩摩藩へ派遣され、軍艦製造法を学んだ。
※3 萩藩士の中核の階層「大組(おおぐみ)」の武士、禄高47石余り。大組は禄高40石から1000石。

参考文献
道迫真吾『萩の近代化産業遺産ー世界遺産への道ー』(萩ものがたりvol.24)2009
道迫真吾「萩の近代化産業遺産と世界遺産運動」『新・史都萩第36号』新・史都萩を愛する会 2010
小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』1998 など

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