おもしろ山口学

幕末、近代化に挑んだ長州人の挑戦の軌跡~世界遺産候補 萩の近代化産業遺産~

第1回:近代化への背景

萩の近代化産業遺産などが、どんな流れの中で生まれていったのかを紹介します。

萩博物館では、11月28日(日曜日)まで企画展「萩の近代化産業遺産―世界遺産をめざしてー」を開催中です。そこでは、萩藩が幕末、自力で推し進めた軍事面の近代化や、写真やガラスなど、西洋の科学技術を幅広く吸収しようとした人々の果敢な挑戦の軌跡を、萩市関連を中心として紹介しています。

短期間に発展を遂げた日本の近代化。その原動力となった九州・山口の6県11市(※1)では、日本人の自力による近代化に焦点を当て「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産認定に向けて活動し、同遺産群は2009(平成21)年1月、ユネスコ世界遺産暫定リストに記載されました。

暫定リスト入りした近代化産業遺産群の構成資産候補で、萩市関連は、現在「萩反射炉(※2)」「恵美須ケ鼻(えびすがはな)造船所跡(※3)」「大板山(おおいたやま)たたら製鉄遺跡(※4)」「萩城下町」の4件(※5)。世界遺産認定に向けて、積極的に活動中です。

青銅製の洋式大砲造りとその限界

萩藩が軍事面などの近代化に挑むようになったのは、1840(天保11)年に中国で起きたアヘン戦争を通じて、欧米列強の脅威を察知したのが最初でした。村田清風(むらた せいふう)や吉田松陰(よしだ しょういん)(※6)らは、中国に近く、海に囲まれた萩藩の海防の強化を主張。それを受け、藩では、1840(天保11)年代から大砲の洋式化に着手します。1853(嘉永6)年のペリー来航後は、幕府も大砲の洋式化を奨励。萩藩は、大砲の中でも、沿岸からの砲撃に適すると考えたカノン砲(※7)の自力生産に力を入れるとともに、鉄製大砲造りのため、反射炉の建設にも着手します。

カノン砲の生産は、鋳物師(いもじ)の郡司(ぐんじ)氏が代々、萩で銅・鉄製品を生産してきた郡司鋳造所を、萩藩が指定して行われました。郡司喜平治(きへいじ)は、鍋や梵鐘(ぼんしょう)などを鋳造してきた日本古来のたたら技術を駆使し、苦心の末、青銅によるカノン砲を完成させます。

しかし、青銅製の洋式大砲は、1864(元治元)年の攘夷戦で、3,000メートルを優に超えたといわれる鉄製のアームストロング砲(※8)を装備した欧米の軍艦に完敗。萩藩は西洋からの武器購入の必要性を実感することになったのでした。

※1 その後、構成資産の見直しが図られた結果、6県10市に変更された。
※2 西洋で開発された金属溶解炉。硬くてもろい鉄を、大砲に適した強靭な鉄に変えることを目指した。
※3 萩藩の洋式軍艦の造船所。
※4 洋式軍艦の建造に鉄を供給した、たたら製鉄遺跡。
※5 当初の構成資産候補であった松下村塾は、さらなる調査・研究が必要として保留中。山口県関連では、ほかに「下関砲台跡と条約灯台」(下関市)が構成資産候補となっている。
※6 ともに萩藩士。清風は幕政改革を推進し洋学を奨励。松陰は松下村塾を主宰、多くの志士を育成。
※7 砲身3メートルを超える、推定飛距離1,000メートルの24ポンドカノン砲など。従来の和式大砲は長くて2メートル前後。
※8 イギリスで1855年に発明。後ろから弾を込める方式で、装てん時間を大幅に短縮。

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