おもしろ山口学

山口の守護大名 大内氏

第5回:山口から消えた大内氏の遺宝

毛利氏によって滋賀県に移築された「国清寺一切経蔵」を紹介します。

大内氏の栄華の象徴、国宝「瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔」。その一帯には室町時代、大内氏ゆかりの寺院が立ち並んでいました。その一つが「国清寺(こくしょうじ)」(※1)。かつてそこには、大内氏が輸入したと推測される大蔵経(だいぞうきょう)(※2)の全巻を安置した堂「一切経蔵(いっさいきょうぞう)」が、そびえていました。

残念ながら現在は、その礎石(※3)が残るのみ。しかし、国清寺一切経蔵は今、滋賀県大津市にある三井寺 (みいでら) (※4)で会うことができます。

現在の名は「園城寺一切経蔵」(国の重要文化財)。経蔵内には、巨大な八角形の輪蔵(りんぞう)が備えられています。輪蔵とは、回転式の書架で、回すことで経を読んだのと同じご利益があるとされます。三井寺の輪蔵は華やかな禅宗様(よう)の組物(※5)などで飾られ、彩色の跡も残り、大蔵経が納められています。それにしても山口にあった一切経蔵が、なぜ三井寺にあるのでしょう。

豊臣家と徳川家のはざまに立たされた毛利氏

三井寺は、1300年を超える歴史を持ち、度々歴史の舞台となってきました。1595(文禄4)年には、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の命令で、主要な堂や塔は破壊され、寺領も没収。しかし、秀吉は3年後、再興を許し、翌日に死去。その後すぐ、再建が始まります。

1599(慶長4)年には、大内氏滅亡後に中国地方の覇者となった毛利元就(もうり もとなり)の孫・輝元(てるもと)が、人足300人を送り、金堂(国宝)の再建を援助。翌年4月には、輝元は勧学院客殿(国宝)の建立に着手。関ヶ原の戦い後の1601(慶長6)年3月には、徳川家康(とくがわ いえやす)が伏見城にあった楼門などを寄進します。

そして同じ年、輝元は山口にあった国清寺一切経蔵を解体し、翌年春、三井寺に寄進したのでした。輝元は、関ヶ原の戦いで家康に対抗した西軍の総大将。輝元が一切経蔵を山口から大津まで移築するには、相当の出費を要したはずで、そこにはそうせざるを得ない政治的な事情があったのではと推測されます。

山口から失われた大内氏の遺宝は、三井寺で今、日本有数の数多くの文化財と共に守られ、威容を誇り続けています。

※1 現在の洞春寺(とうしゅんじ)の地。
※2 約7千巻もの仏典を集大成したもの。
※3 輪蔵の中心柱の礎石。
※4 正式名は、長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)。
※5 屋根や軒を支える、斗供(ときょう)と呼ばれる柱上の構造物。

参考文献
園城寺『園城寺之研究』1931星野書店 など

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