第1回:栄華の軌跡
室町時代、西国一の勢力を誇った守護大名・大内氏。約200年の栄華の軌跡を紹介します。
1893(明治26)年に発見されたという「大内氏時代 山口古図」(※1)によれば、山口は、南北朝時代の1360(延文5・正平15)年、現在の山口県である周防(すおう)・長門(ながと)国を手中にした大内弘世(おおうち ひろよ)の時に開府された、と伝わっています。今年は、その年から数えて650年の節目になることから、山口市では、さまざまな記念事業が行われます。
弘世の跡を継いだ義弘(よしひろ)は、室町幕府将軍・足利義満(あしかが よしみつ)を補佐し、活躍した人物でした。山名氏清(やまな うじきよ)(※2)の明徳の乱を鎮めた功労により、和泉(いずみ。現在の大阪府南西部)・紀伊(現在の和歌山県)国の守護にも任じられ、南北両朝の和睦を仲介し、両朝合一に貢献。しかし、朝鮮と交易を行い、財力と武力を伸展させたため、将軍・義満から次第に疎まれ、1399(応永6)年、和泉の堺で挙兵して、義満と戦い、亡くなります。
国際交易による財力、武力、最先端の文化
盛見(もりはる。もりみ)、持世(もちよ)を経て教弘(のりひろ)の代になると、幕府の遣明船に参加するなど、大内氏の勢力はさらに増大します。跡を継いだ政弘(まさひろ)は、京都で応仁の乱(※3)が始まると、大軍を率いて山名氏に味方し、11年間在京。応仁の乱前後には、京都から文芸に秀でた公家や、画家の雪舟(せっしゅう)(※4)らが政弘を頼って山口へ下向し、当時最先端の文化が山口ではぐくまれます。
続く義興(よしおき)は、細川氏に追われた前将軍・足利義稙(あしかが よしたね)を約8年間山口で擁護した後、義稙を奉じて上洛し、将軍の座に復職させるなど、幕政を大きく左右します。
しかし、次の義隆(よしたか)は7カ国(※5)の守護となり、官位も歴代最高の従二位(じゅにい)に昇進しながら、出雲遠征の失敗を機に政治を顧みなくなり、家臣が対立。1551(天文20)年、重臣の陶隆房(すえ たかふさ)(※6)の軍に山口を追われ、長門深川(ふかわ)(現在の長門市深川)で自刃。大内義長(よしなが)を当主に擁立した陶隆房は1555(弘治元)年、厳島(いつくしま)の戦いで毛利元就(もうり もとなり)(※7)に討たれ、義長も1557(弘治3)年に長府(現在の下関市長府)で自刃。約200年続いた大内氏の栄華は終わりを迎えたのでした。
大内氏時代山口古図(県文書館蔵 軸物史料218)
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※1 サビエルの布教の地を探索中だったビリオン神父が発見したとされるが、その時の原図は現在、所在不明。複数の写本のみ現存。古図の左下隅に開府の経緯が「延文五年」という年号とともに記されているが、大内氏時代山口古図は、大内氏の時代後の作成と考えられている。
※2 一族で全国の6分の1に当たる11カ国の守護を務めていた。
※3 有力守護大名が細川・山名氏の両派に分かれて争った戦い。
※4 雪舟が初めて山口に下った時の当主は教弘。
※5 周防・長門・豊前(福岡県東部・大分県北部)・筑前(福岡県西部)・石見(島根県西部)・安芸(広島県西部)・備後(広島県東部)。
※6 豊後の大友晴英(おおとも はるふさ)を大内義長として擁立後、陶晴賢(すえ はるかた)と改名。
※7 安芸国の国人(領主)からおこり、大内氏に代わる戦国大名になった。