2010年7月23日Vol.193山口県広報広聴課

おもしろ山口学

花神 大村益次郎

【第2回】ふすまの下張り文書から見えてきた素顔
四境戦争略図(山口市歴史民俗資料館蔵)四境戦争略図(山口市歴史民俗資料館蔵)

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  山口市鋳銭司(すぜんじ)にあった大村益次郎(おおむら ますじろう)(※1)の旧居は彼の死後、解体され、ふすまなどの建具を含め、解体材は地元の寺の再建に用いられました。旧居のふすまの下張りには、益次郎の日常の覚書などが使われており、後にそれらから、豆腐や酒を毎日のように買っていたことや「茶碗ニ豆腐ノ生揚(なまあげ。厚揚げ) 小口ネギ スリ大根 最妙ナリ」といった料理の感想など、益次郎の興味深い一面が浮かび上がってきました(※2)。今回は、その下張り文書にまつわる話を紹介しましょう。
 1862(文久2)年、萩藩はイギリスの商人から軍艦を購入し、「壬戌丸(じんじゅつまる)」と名付けます。しかし、萩藩が関門海峡で攘夷(じょうい)戦を実行後、アメリカの軍艦に報復され、壬戌丸は沈没。萩藩は、科学者の中嶋治平(なかしま じへい)(※3)に壬戌丸の引き揚げを命じ、そして益次郎に、銃器購入に充てるため売却を命じます。引き揚げは成功し、幕府による第一次長州征討軍撤兵後の1865(慶応元)年2月、益次郎は上海へ壬戌丸で密航し、アメリカの商人と契約します。しかし、壬戌丸の密売は幕府の内偵に知られ、第二次長州征討(幕長戦争、四境戦争)の理由の一つとなります。
 益次郎は銃器の購入も試みますが失敗し、坂本龍馬(さかもと りょうま)らの仲介で、萩藩が薩摩藩名義で購入する別の話が持ち上がります。これを知った益次郎が桂小五郎(かつら こごろう)にあてた手紙の下書きが、ふすまの下張りから見つかっています。そこには「小銃相求候に付ては薩と和する之好機会」(※4)とあり、薩長の連携を勧めています。同時に、きょうより陸軍並びに兵学校の世話に専念したい(※5)、とも記され、自分の失敗への複雑な思いがうかがえます。
 その後、幕長戦争の石州口(せきしゅうぐち。現在の島根県益田市・浜田市周辺)の戦いに勝利し、益次郎は名誉を挽回(ばんかい)。その時の作戦図も、ふすまの下張りから発見されています。
 ふすまに隠されていた文書は、人間・益次郎のさまざまな面を物語ってくれます。

  • ※1 幼名は村田宗太郎(むらた そうたろう)。医名は良庵(りょうあん)。その後、蔵六(ぞうろく)、1865(慶応元)年に大村益次郎と改名。
  • ※2 内田伸『大村益次郎文書』マツノ書店、1977。内田伸『大村益次郎史料』マツノ書店、2000。
  • ※3 萩の朝鮮通詞(通訳)の家に生まれ、西洋科学を学び、ガラス製造や軍事携帯食としてパンの製造、写真術、羊毛の染色方法の紹介など多彩な才能を発揮。
  • ※4 小銃を求めることについては、薩摩と和睦する良い機会という意味。
  • ※5 桂に実際届いた1865(慶応元)年8月17日付けの手紙からも読み取れる。『木戸孝允(きど たかよし)関係文書2』東京大学出版会、2007。

 山口市歴史民俗資料館では、大村益次郎所蔵資料を展示中。電話:083-924-7001
 また、山口市鋳銭司にある鋳銭司郷土館では常時、大村益次郎関係の約60点の所蔵資料を展示。
電話:083-986-2368

参考文献『ふるさと山口第31号』(山口の文化財を守る会、2010。)より「花神ふたたび 大村益次郎とその末裔(まつえい)山口市歴史民俗資料館企画展」(山口市歴史民俗資料館学芸員 立石智章著)