2010年7月9日Vol.192山口県広報広聴課

おもしろ山口学

花神 大村益次郎

【第1回】農村の医者から維新の功労者へ
大村益次郎の肖像(山口市歴史民俗資料館蔵)大村益次郎の肖像(山口市歴史民俗資料館蔵)
  司馬遼太郎(しば りょうたろう)の小説『花神(かしん)』で主人公として描かれている大村益次郎(おおむら ますじろう)。明治政府から西郷隆盛(さいごう たかもり)(※1)の2,000石を筆頭に、大久保利通(おおくぼ としみち)(※2)や木戸孝允(きど たかよし)(※3)、広沢真臣(ひろさわ さねおみ)(※4)の1,800石に次いで1,500石を賜ったほど、維新の功労者として高く評価されています。
 益次郎はもともと武士ではなく、1825(文政8)年、萩藩領鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口市鋳銭司)で医業と農業を営む家に生まれました。三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)で医学と蘭学、日田(現在の大分県日田市)の「咸宜園(かんぎえん)」で儒学、大坂の緒方洪庵(おがた こうあん)の「適塾(てきじゅく)」で蘭学と医学を学んで塾頭を務めた後、帰郷し、村の医師となります。
 ところが、帰郷から3年後の1853(嘉永6)年6月、黒船が日本に来航。欧米列強に危機感を抱いた宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)に、蘭学の知識を買われ、出仕。長崎で軍艦の製造法を学び、そのひな形(※5)を完成させます。宇和島藩主に従って赴いた江戸では、幕府の講武所(※6)の教授となり、萩藩の桂小五郎(かつら こごろう)の知るところとなり、請われて1860(万延元)年、萩藩の士雇 (さむらいやとい)(※7)となります。
 萩藩では、西洋兵学を教え、1865(慶応元)年、幕府から第二次長州征討の命令が下されると、桂の進言により軍事改革の総責任者に抜てきされ、禄高100石の士分に引き上げられ、1866(慶応2)年6月、幕府と戦った幕長戦争(四境戦争)では、石州口(せきしゅうぐち。現在の島根県益田市・浜田市周辺)の戦いを指揮し、勝利へと導きます。
 維新後は、兵部省(ひょうぶしょう)の設置と同時に兵部大輔(※8)となり、武士に頼らない徴兵制の創設を目指しますが、1869(明治2)年、京都で反対派から襲われ、同年11月大阪で亡くなったのでした。

  • ※1・2 ともに薩摩藩出身。
  • ※3・4 ともに萩藩出身。木戸孝允の前の名は、桂小五郎。
  • ※5 1855(安政2)年完成。宇和島湾で宇和島藩主を乗せて進水式を行った。
  • ※6 武芸の訓練所。益次郎は西洋兵学の教授を務めた。
  • ※7 士分に昇進前の下級士。萩藩独自の制度。
  • ※8 兵部卿は皇族が務め、益次郎は次官に当たるが、実務としては最高責任者。

 山口市歴史民俗資料館では、大村益次郎所蔵資料を展示中。電話:083-924-7001
 また、山口市鋳銭司にある鋳銭司郷土館では常時、大村益次郎関係の約60点の所蔵資料を展示。
 電話:083-986-2368