2010年6月25日Vol.191山口県広報広聴課

おもしろ山口学

坂本龍馬と長州

【第2回】上関・防府・下関・山口
明治・大正期と推測される絵はがき「上関港全景」(山口県文書館蔵 佐倉谷家文書)
明治・大正期と推測される絵はがき「上関港全景」(山口県文書館蔵 佐倉谷家文書)

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  1864(元治元)年7月、萩藩が薩摩藩や会津藩を相手に京都御所で戦った「禁門の変」。以後、薩摩と長州(※1)の関係が険悪さを増す中、坂本龍馬(さかもと りょうま)は、時局を変えるには薩長の連携が必要と考え、同じ考えの志士らと動き始めます。1865(慶応元)年8月には、幕府から2度目の征討令が出され、幕府と対立する状況下では軍備増強が困難となった萩藩のため、イギリスの商人グラバーから薩摩藩名義での武器の購入を龍馬主宰の亀山社中(※2)の協力によって実現させます。
 龍馬は、同年9月29日に上関(かみのせき。現在の上関町)、10月3日には宮市(みやいち。現在の防府市宮市)、さらに山口(現在の山口市)へ。そして、この間萩藩士の広沢真臣(ひろさわ さねおみ)(※3)らと対面します。この時、龍馬は西郷隆盛(さいごう たかもり)(※4)からの密書を携えていました。その密書とは、天皇から長州征討の勅命が出されても、薩摩藩は応じないと朝廷に論じた、と大久保利通(おおくぼ としみち)(※5)が西郷に伝えた手紙の写しです。これを見せることで、まだ薩摩藩への不信が残る萩藩に薩摩藩の誠意を伝えたのでした(※6)。
 龍馬は、同年11月26日に再び上関を訪れ、12月3日には下関へ。この時は、亀山社中の近藤長次郎(こんどう ちょうじろう) (※7)の働きで、グラバーから萩藩のために薩摩藩名義で購入した蒸気船「ユニオン号(※8)」の運用をめぐり、三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)にあった萩藩海軍局と亀山社中がもめていたころ。薩長の仲人役として奮闘した龍馬の姿が目に浮かびます。
 1866(慶応2)年1月、薩長同盟(盟約締結)が実現。同年6月、萩藩の所属と決まった、その蒸気船を引き渡しに下関にやってきた龍馬は、萩藩士の高杉晋作(たかすぎ しんさく)に請われ、そのまま船長として、長州と幕府側が戦った小倉戦争(第二次長州征討。別名、幕長戦争、四境戦争の一つ)に参戦し、長州を勝利へ導きます。姉への手紙によれば、その後、山口で萩藩主に対面し、ラシャ(※9)の西洋衣の生地を贈られます。それは、薩長同盟などの働きに対する萩藩からの感謝の印だったのでしょう。藩の枠を超えた活躍で時代を動かしていった龍馬。その足跡は、長州の地に数多く残っています。

  • ※1 萩藩やその支藩を含む。現在の山口県。
  • ※2 龍馬が長崎で設立した商社。
  • ※3 萩藩士・桂小五郎(かつら こごろう)らと協力し、幕末維新期に活躍。
  • ※4・5 いずれも薩摩藩士。
  • ※6 佐々木克氏著(2004)『幕末政治と薩摩藩』吉川弘文館発行による。
  • ※7 土佐藩出身。
  • ※8 後に萩藩が「乙丑丸(いっちゅうまる)」と命名。
  • ※9 羊毛の厚い毛織物。

下関市立長府博物館では現在、龍馬コーナーを設けて所蔵資料を展示中。7月まで攘夷戦争と薩長和解への道、8・9・10月は寺田屋事件と小倉戦争、10・11月は坂本龍馬と下関というテーマを予定。電話:0832-45-0555