2010年6月11日Vol.190山口県広報広聴課

おもしろ山口学

坂本龍馬と長州

【第1回】久坂玄瑞との出会い
明倫館有備館
明倫館有備館
  萩博物館では、6月20日(日曜日)まで「討幕エネルギーの系譜」展を開催中です。そこには、幕末の志士、土佐藩(現在の高知県)出身の坂本龍馬(さかもと りょうま)とかかわりの深い萩藩の久坂玄瑞(くさか げんずい) (※1)らの貴重な資料が展示されています。
 久坂の日記によれば、龍馬は1862(文久2)年1月、土佐藩の武市半平太(たけち はんぺいた)(※2)の手紙を携えて萩に久坂を訪ね、14日から23日まで滞在しています。初日は民間の宿に泊まりましたが、久坂の紹介で翌日、文武修行館(他国文武修行者宿)へ。文武修行館とは、萩藩が設けた他藩からの文武修行者のための無料宿泊所(※3)。滞在中には、藩校「明倫館(めいりんかん)」の剣槍道場「有備館(ゆうびかん)」(※4)で少年と剣道の試合をしたと伝えられています。龍馬は久坂から「草莽(そうもう)志士糾合義挙(※5)」「尊藩(土佐藩)も幣藩(萩藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」と記された武市への手紙を預かって帰郷。久坂に刺激されたのか、その2カ月後、龍馬は土佐藩を脱藩(※6)します。
 討幕エネルギーの系譜展では、「龍の馬(め)を吾(われ)えてしかば九重(ここのえ)のみやこのはるをゆきてやみまし」という久坂の和歌が展示されています。これは龍馬(きわめて優れた馬)を得て京都に乗り込みたいという意味で、展示品の解説には「それが坂本龍馬のことか否かは分からないが、そのように解釈できそうなところが面白い」と記されています。
 この和歌は、寺嶋(島)忠三郎(てらじま ちゅうざぶろう)(※7)による戯(ざ)れ歌も合わせた一幅の掛け軸となっています。品川弥二郎(しながわ やじろう)(※8)は1888(明治21)年に、その寺島の戯れ歌を見て涙を流したといい、また、いつのことかは不明ですが、久坂の和歌に次の添え書きを記しています。「甲子(きのえね)七月十九日鷹司(たかつかさ)殿ニテ寺嶋忠三郎ト共ニ切腹時年廿六(にじゅうろく)」(※9)。
 久坂は、この添え書きにあるように1864(元治元)年7月、前年の政変で京都を追われた萩藩が再起を図り、薩摩藩や会津藩と京都御所で戦った「禁門の変」にて寺島と共に無念の死を遂げたのでした。

  • ※1・7・8 いずれも吉田松陰(よしだ しょういん)が主宰した松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生。
  • ※2 尊王攘夷(そんのうじょうい)派の土佐勤王党を主唱した。
  • ※3 萩市観光協会公式サイトの「一坂太郎のディスカバー維新史」より。
  • ※4 明倫館は現在、萩市立明倫小学校。敷地内に有備館が往時のまま建つ。
  • ※5 松陰が説いた、在野の有志が力を合わせ、正義のために事を起こすこと。
  • ※6 藩に無断で藩籍を抜けて浪人になることで、処罰を伴う。
  • ※9 鷹司家は公卿(くぎょう)。禁門の変の際、久坂は鷹司卿の御所への参内に同行を嘆願したが叶わず、自刃した。

有備館は普段非公開ですが、7月31日(土曜日)、8月7日(土曜日)、10月2日(土曜日)に「特別公開&歴史トーク」が行われます。詳しくは萩市観光課へ。電話:0838-25-3139