2010年4月23日・5月14日Vol.188(合併号)山口県広報広聴課

おもしろ山口学

七卿落ちと萩藩~第2回 山口に下った公卿たち~

錦小路頼徳墓 記念碑の題字は三条実美
錦小路頼徳墓
記念碑の題字は三条実美

 「ゆうたすき(※1) かけて祈るも 一すちに わかまこ丶ろを つくすなりけり」(※2)。県立山口博物館で5月9日(日曜日)まで開催中の「山口博物館維新資料コレクション」では、この三条実美(さんじょう さねとみ)の和歌をはじめ、「七卿落(しちきょうおち)」の4人の公卿(くぎょう)が詠んだ和歌が展示されています。
 1863(文久3)年8月、突然の政変によって京都を追放された尊王攘夷(そんのうじょうい)派の三条実美ら7人の公卿(※3)。兵庫から船に乗り、三田尻(みたじり)(現在の防府市)に着きます。三田尻では、萩藩の公邸の一角に滞在しますが、同年10月、七卿の一人、澤宣嘉(さわ のぶよし)が一部の志士たちと挙兵するため、ひそかに三田尻を脱出。残る6人の公卿は萩藩と相談し、海から離れた山口湯田(現在の山口市湯田)へ移ります。その後も朝廷から追放された公卿や萩藩を取り巻く状況は厳しく、打開を願い、公卿たちは湯田の山のふもとにある朝倉八幡宮に度々参拝します。その時、三条実美らが詠んで奉納したのが、冒頭の和歌。公卿たちの無念さとやるせなさが胸に迫ります。
 そのころ萩藩では、1863(文久3)年5月の関門海峡での攘夷決行後、防備を強化するため砲台の整備を進めていました。1864(元治元)年3月、6人の公卿はその見学のため下関へ。ところが途中、公卿の1人、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)が病に倒れ、滞在先の白石正一郎(しらいし しょういちろう)(※4)の屋敷で4月、失意の中、息を引き取ります。享年30歳。翌月、亡きがらは山口に運ばれ、萩藩主が喪主となって、公卿らが当時住んでいた湯田に近い赤妻山(あかづまやま)のふもとに葬られます。
 その後、5人の公卿は全員、下関、そして太宰府(だざいふ)(現在の福岡県太宰府市)へと移りますが、大政奉還後の1868(慶応4)年1月に天皇から帰京を許され、明治維新後は政治家となるなど、それぞれに活躍していきます。しかし、悲運の錦小路を忘れることはなく、1870(明治3)年、赤妻山の墓の後ろに記念碑を建立します。いつしかこの辺りの地は、その名にちなみ、錦町(にしきちょう)と呼ばれるようになったのでした。

  • ※1 木綿(ゆう)で作った、たすき。神事に奉仕する際、袖を掲げるのに用いる。
  • ※2 ゆうだすきを掛けて祈り、一筋に私の真心を尽くします、といった意味。
  • ※3 そのほか、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとなが)、錦小路頼徳、澤宣嘉。
  • ※4 数多くの志士を支援した下関の荷受問屋の主人。自らも志士として活躍。