2010年4月9日Vol.187山口県広報広聴課

おもしろ山口学

七卿落ちと萩藩~久坂玄瑞筆七卿落今様歌と七卿落図~

長三洲作「七卿落図」(山口県立山口博物館 蔵)長三洲作「七卿落図」(山口県立山口博物館 蔵)
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 県立山口博物館では現在、5月9日(日曜日)まで「山口博物館維新資料コレクション」を開催中です。その展示品の中に、久坂玄瑞(くさか げんずい)自筆の「七卿落今様歌(しちきょうおち いまよううた)」(※1)や、長三洲(ちょう さんしゅう)(※2)作の「七卿落図」(写真参照)があります。
 幕末、黒船の来航後、攘夷(じょうい)(※3)実行の命令を天皇から下してもらうよう朝廷に働き掛けていた萩藩。しかし、1863(文久3)年5月に萩藩が関門海峡で攘夷戦を決行後、8月18日に政変が起こり、それまで萩藩を支持していた朝廷の態度が急変します。萩藩は天皇が住む御所の警備の役目を解かれ、尊王攘夷派の三条実美(さんじょう さねとみ)ら7人の公卿(くぎょう)(※4)は失脚し、京都を追放されることに。七卿と京都にいた萩藩士らは、突然の政変に憤りと悔しさと涙に暮れながら京都東山の寺に集合。翌日まだ夜も明けきらず、雨も降る中、一行は京都を離れ、長州(※5)へ。これがいわゆる七卿落ちです。
 その随行者の中に、吉田松陰(よしだ しょういん)に学び、最も将来を期待されていた門下生の一人、久坂玄瑞の姿がありました。彼がその時の情景を歌ったのが、七卿落今様歌。そこには「ふりしく雨の絶間なく なみたにそてのぬれはてて」(※6)という一節。この哀感に満ちた今様歌は、司馬遼太郎(しば りょうたろう)の小説『竜馬がゆく』の七卿落ちの場面にも登場します。そして、久坂の歌った情景がまさに描き出されているのが、長三洲の七卿落図。わずかな供に守られ、雨の中、人目をはばかるように都を下る物悲しさに満ちています。しかし、『防長回天史』(※7)によれば、わずかな供ではなく、萩藩士ら2千人余りを率いての都落ちだったようです。
 久坂は七卿落ちの1年後、再起を図ろうとした萩藩士らと薩摩・会津・桑名藩(現在の鹿児島県・福島県西部・三重県北部)等の兵が戦った京都御所での「禁門の変」にて、命を散らします。享年25歳でした。
 自らの信念に基づいて激動期を生きた、あまたの志士たち。今様歌や七卿落図から、切々とした哀感とともに、もう一度奮い立とうとする彼らの熱い思いが伝わってきます。

  • ※1 今様歌は七五調の歌。長さに決まりはない。
  • ※2 豊後(現在の大分県)の出身。萩藩の尊王攘夷派の志士らと交友が深く、山口に一時住み、書画の名手としても知られ、明治維新後は学制の制定に参画。
  • ※3 外国を撃ち払うこと。
  • ※4 そのほか、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)、壬生基修(みぶ もとなが)、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)、澤宣嘉(さわ のぶよし)。
  • ※5 萩藩やその支藩を含む。現在の山口県。
  • ※6 絶え間なく雨は降りしきり、涙に袖は濡れ果てて、という意味。
  • ※7 明治の政治家で伊藤博文(いとう ひろぶみ)の女婿、末松謙澄(すえまつ けんちょう)による幕末維新史。