2010年2月26日Vol.184山口県広報広聴課

おもしろ山口学

坂本龍馬と下関 

【第4回】龍馬の最期とお龍を託された親友たち
慶応3年5月8日付坂本龍馬書状三吉慎蔵宛(功山寺蔵、下関市立長府博物館寄託)慶応3年5月8日付坂本龍馬書状三吉慎蔵宛(功山寺蔵、下関市立長府博物館寄託)
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 下関で妻のお龍(りょう)と暮らし始めた坂本龍馬(さかもと りょうま)。下関に落ち着くことなく、「海援隊」(※1)の隊長として1867(慶応3)年4月、蒸気船いろは丸(※2)で長崎から出航します。しかし、いろは丸は瀬戸内海で紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部)の軍艦と衝突し、沈没。どちらに非があるか長崎で話し合うことになり、龍馬は一度下関に戻ります。寺田屋事件(※3)を共に切り抜けた長府藩(※4)士の三吉慎蔵(みよし しんぞう)が心配し、見舞いを持って駆け付けると、翌日、龍馬は早速三吉に礼状を送ります。徳川御三家の一つ、紀州藩とのトラブルに身の危険を感じた龍馬は、下関で借りた部屋の持ち主、伊藤九三(いとう きゅうぞう)に、自分たち夫婦のことは三吉や長府藩士の印藤聿(いんどう のぶる)に相談を、という手紙を託します。さらに、長崎への出発直前には、三吉に、万一の時は土佐から迎えが来るまで妻を三吉家で養ってほしい、と遺言めいた手紙をしたためます(写真参照)。
 いろは丸事件の解決後、龍馬は自ら考えた大政奉還の実現に向けて京へ。大政奉還が実現し、新政府作りに尽力していた11月15日の夜、龍馬は滞在先の「近江屋」で刺客に襲われ、絶命。そのことを海援隊の隊士から知らされた伊藤は三吉と印藤に「奥様へは何ともその模様は申し上げず、差し控えております。お指図のほどを」と急ぎ伝えます。お龍は龍馬の死の翌日、その死を予感させる夢を見ていたため、それが事実だったと知った時は取り乱さなかったものの、伊藤家で法事を行った際、自分の髪を切って龍馬の霊前に供えるや泣き伏したといいます。三吉は龍馬に託された通り、お龍を預かり、翌年3月、お龍が土佐へ行くことになると、三吉は海援隊の隊士から感謝の印として龍馬の遺品の刀を贈られます(※5)。
 やがて時は経ち、1896(明治29)年。三吉は下関の自宅で、寺田屋事件満30年記念と龍馬の30回忌を兼ねた行事を行います。伊藤はすでに没し、維新後、商社や化学会社などを設立し多忙だった印藤は出席できませんでしたが、維新直前33歳でこの世を去った龍馬をしのび、旧長府藩士らが出席。龍馬亡き後も友情の絆は下関ではぐくまれ続けていたのでした。

  • ※1 龍馬が設立した亀山社中(かめやましゃちゅう)を改めた組織。
  • ※2 伊予大洲(いよおおず)藩(現在の愛媛県大洲市など)から海援隊が借りた船。
  • ※3 1866(慶応2)年、伏見(ふしみ)の寺田屋で幕府の役人から襲撃された事件。
  • ※4 現在の下関市の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。
  • ※5 また、龍馬の大政奉還策を土佐藩主に進言した土佐藩士の後藤象二郎(ごとう しょうじろう)からも、土佐特産の和紙を贈られている。

参考文献『龍馬とお龍の下関』(下関市立長府博物館学芸員 古城春樹著)