2010年2月12日Vol.183山口県広報広聴課

おもしろ山口学

坂本龍馬と下関 

【第3回】龍馬がお龍と暮らしたまち・下関
長府藩士・梶山鼎介(かじやま ていすけ)に贈られた坂本龍馬俚謡(下関市立長府博物館 蔵)
長府藩士・梶山鼎介(かじやま ていすけ)に贈られた坂本龍馬俚謡(下関市立長府博物館 蔵)
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 薩摩藩の援助で1865(慶応元)年、長崎で「亀山社中(かめやましゃちゅう)」(※1)を結成した坂本龍馬(さかもと りょうま)。1866(慶応2)年の終わりごろから、妻・お龍(りょう)との生活の拠点を下関に置くことを考えるようになったようです。年が明けると、龍馬は、萩藩士の桂小五郎(かつら こごろう)の勧めで萩藩越荷方(こしにかた)(※2)の役人を訪ね、住まいの斡旋(あっせん)を依頼。以前から宿泊するなどして世話になっていた下関の大年寄(※3)の伊藤九三(いとう きゅうぞう)(※4)の家に住むことに。萩藩が公認したのは龍馬だけでしたが、長府藩(※5)士の三吉慎蔵(みよし しんぞう)に手紙を送ってお龍の下関滞在の公認を取ると、長崎からお龍を連れて下関に戻り、伊藤家の一室を借りて暮らし始めました。
 お龍が何かの理由で怒ると、龍馬は茶碗や皿などを差し出し、お龍はそれを庭の飛び石目がけて投げて割り、それで機嫌を直していたと長府藩士によって伝えられています。欠け継ぎがしてある、印藤聿(いんどう のぶる)に餞別(せんべつ)として贈られた龍馬愛用の飯碗(前号の写真)は、その話が元になって、お龍が割ったものを補修したものだという話が生まれたようです。また、二人は関門海峡に浮かぶ巌流島(がんりゅうじま)へ花見に行ったり、晩にこっそり渡って「煙火(はなび)」を上げたりしたこともある、とお龍は龍馬の亡き後、語っています。
 伊藤家に世帯を構えていた1867(慶応3)年春ごろと思われますが、龍馬が朝帰りした日のことです。責めるお龍に、龍馬は三味線を弾きながら、言い訳をするような俚謡(りよう)(※6)を即興で作って謡ったところ、お龍は笑って機嫌を直しました。そして、龍馬はその俚謡をたまたまその場に居合わせた長府藩士に書いて与えました(写真参照)。そこには、「あなとのせとのいなりまち(※7)」と下関の地名を詠み込みながら、「ほかにこゝろハあるまいと かけてちかいし山の神」といった一節があります。これは、「ほかの女性に心はないと賭けて誓うよ、わが奥様」といった意味。下関での二人の生き生きとした暮らしぶりが目に浮かぶようです。

  • ※1 龍馬が長崎で設立した商社。
  • ※2 萩藩が下関に寄港した回船(沿岸航路で人や物資を輸送した船)を対象に金融・倉庫業を営んだ役所。
  • ※3 町奉行から任命された町内の自治の最高責任者。
  • ※4 元の名は助太夫(すけだゆう)。「助太夫」は時代遅れなので改名するようにとの龍馬からの勧めで改名。
  • ※5 現在の下関市の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。
  • ※6 小唄。
  • ※7 穴門の瀬戸(関門海峡)の稲荷町の意味。稲荷町は当時の下関の遊郭(ゆうかく)街。

参考文献:『龍馬とお龍の下関』(下関市立長府博物館学芸員 古城春樹著)