2010年1月8日Vol.181山口県広報広聴課

おもしろ山口学

坂本龍馬と下関 

【第1回】運命の分かれ道となった下関
「坂本龍馬写真」三吉治敬氏蔵 米熊・慎蔵・龍馬会管理
「坂本龍馬写真」三吉治敬氏蔵 米熊・慎蔵・龍馬会管理

 土佐藩(現在の高知県)に生まれ、薩長同盟(連合)(※1)の仲立ちなど、幕末に大きな足跡を残した坂本龍馬(さかもと りょうま)。龍馬と妻のお龍(りょう)が下関で暮らしていたなど、龍馬と下関との間に深い関係があったことは、あまり知られていません。下関とのかかわりについて、これから4回シリーズで紹介していきます。
 龍馬が、土佐藩を脱藩(※2)したのは、1862(文久2)年3月のこと。脱藩後に目指した先は、下関の荷受問屋(※3)の主人・白石正一郎(しらいし しょういちろう)の屋敷だったようです。下関は当時、北陸や関西、九州などから物資が流入し、交易の拠点として栄えていた港町。白石は国学の深い素養があり、その人脈を通じて諸藩の尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士と交流していました。
 龍馬が下関へ向かった目的は、白石邸に泊まっていた、龍馬より少し前に土佐藩を脱藩した吉村虎(寅)太郎(よしむら とらたろう)と落ち合うためだったようですが、龍馬が到着する前に、吉村は京へ向かっていました。吉村は、京の郊外・伏見(ふしみ)(現在の京都市伏見区)で起こった「寺田屋事件」(※4)に遭遇。そこで捕われ、土佐へ送還、投獄されます。一方、龍馬はその後、江戸へ行き、幕府や藩という枠を超え、日本に海軍を作ろうと考えていた幕臣の勝海舟(かつ かいしゅう)と会って刺激を受け、以後、彼の人生は大きく変わっていきます。
 龍馬と吉村。下関で落ち合い、ともに京へ行っていたら、龍馬も寺田屋事件に巻き込まれたかもしれません。下関の地でのすれ違いが、二人にとって運命の別れ道だったのかもしれません。
 龍馬はその後、下関で長府(ちょうふ)藩(※5)士と交流を深めます。その中の一人に、龍馬が自分の写真を贈るほど親交のあった(写真参照)三吉慎蔵(みよし しんぞう)という人物がいます。次回は、三吉とのかかわりについて紹介します。

  • ※1 薩摩藩と萩藩との間でひそかに結ばれた和解・提携。
  • ※2 藩に無断で藩籍を抜けて浪人になることで、処罰を伴う。
  • ※3 各地の荷主からの荷の引き受け・保管・販売を行い、手数料などを収入とした。
  • ※4 倒幕派の薩摩藩士らが京都伏見の旅館「寺田屋」で公武合体論の薩摩藩士と殺傷し合った事件。後に龍馬が襲われたもう一つの寺田屋事件もある。
  • ※5 長門国(ながとのくに)豊浦郡(現在の下関市)の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。

参考文献『龍馬とお龍の下関』(下関市立長府博物館学芸員 古城春樹著)

下関市立長府博物館では現在、常設企画展「坂本龍馬と下関」が1月31日(日曜日)まで開催中です。