2009年12月11日Vol.179山口県広報広聴課

おもしろ山口学

小林和作とふるさと秋穂[前編]

小林和作
小林和作(小林和作先生頌徳会 協力)

 色彩豊かな美しい風景画を次々と生み出して「色彩の魔術師」と呼ばれた画家、故・小林和作 (こばやし わさく)。作品だけでなく、人間的な面でも魅力に富み、その波乱に富んだ人生は逸話とともに今もふるさとで語り継がれています。
 小林和作は1888(明治21)年、大海(おおみ)村(現在の山口市秋穂(あいお)大海)で生まれました。小林家は代々広大な田畑や塩田を所有した地主で、回船(※1)業でも富を築いた裕福な家でした。長男が早く世を去ったため、次男の和作は跡継ぎとして大切にされ、家で勉強していると病弱な体を案じた父親から「勉強するな」としかりつけられたほど。そのため学校から帰ると、いつも魚釣りに行っていたといいます。
 少年時代から画家を志し、反対する父を説得し、京都へ出て日本画を学びます。文展(※2)に2度入選しますが、その後、落選が続き、洋画へ転向。1922(大正11)年には、当時まだ新進画家だった中川一政(なかがわ かずまさ) (※3)や、梅原龍三郎(うめはら りゅうざぶろう) (※4)らの油絵に接して感動し、彼らがいる東京へ転居。自分よりも年下である中川や、梅原らに師事します。
 この間1921(大正10)年に父親が死去。莫大な遺産を手にした和作は、師とした画家や若い画家たちの作品を買い上げたり生活費を出したりする支援者となり、また、自身も絵を描く富豪画家となります。ところが1931(昭和6)年、和作ら7人兄弟の財産を管理していた弟が株に失敗し、和作は破産。そして3年後、東京を離れて広島県尾道市へ転居。少年時代、釣りをしながら親しんだふるさとの原風景が、やはり海辺のまちである尾道へと、和作を引き寄せたのかもしれません。
 東京時代からすでに作品は高く評価され始めていましたが、尾道への転居以降、さらにみずみずしい風景画を生みだし、画風を確立。地方にいながら確固たる画家の地位を築き、地方の美術界の発展にも貢献していったのでした。

  • ※1 沿岸航路で人や物資を輸送した船。
  • ※2 文部省美術展覧会の略称。
  • ※3 画家・岸田劉生(きしだ りゅうせい)に見出された。和作との親交があつく、秋穂で和作1周忌に建立された頌徳碑の碑文も書いた。
  • ※4 1908(明治21)年20歳の時、渡仏。画家ルノアールに師事。色彩豊かで豪華けんらんな画風を確立し、日本洋画壇の頂点を極めた。

参考文献
『小林和作遺作展図録』(朝日新聞社発行)、『花を見るかな 評伝小林和作』(高橋玄洋著、三笠書房発行)、『春の旅』『秋の旅』(小林和作著、求龍社発行)、『風景画と随筆』(小林和作著、美術出版社発行)