2009年11月13日Vol.177山口県広報広聴課

おもしろ山口学

画家・松田正平の世界[前編]

四国犬 1979年 山口県立美術館寄託
四国犬 1979年 山口県立美術館寄託

 歯をむき出しにして吠えているのに、どこか愛きょうのある犬。そしてバラ、海…。身近なものを題材とした、ひょうひょうとしていて、見る人の肩の力をふっと抜けさせてしまう故・松田正平(まつだ しょうへい)の不思議な絵。その自由な画風に魅せられた人は美術評論家の故・洲之内徹(すのうち とおる)(※1)や、随筆家の故・白洲正子(しらす まさこ)(※2)、映画監督の山田洋次(やまだ ようじ)さんなど数知れません。しかし、その画風が広く受け入れられるようになったのは彼が70代になってからのことでした。
 松田正平は1913(大正2)年、島根県日原(にちはら)町(現在の津和野町)に生まれました。4歳の時、山口県宇部市の松田家の養子に。14歳の時に油絵を知り、1932(昭和12)年に東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学油絵科)に入学します。卒業後、フランスへ留学しますが、第2次世界大戦がぼっ発し、帰国。パリで知り合った日本人女性と東京で結婚しますが、1945(昭和20)年2月、帰郷。宇部で炭鉱員として働き始め、そこで後に代表的な画題の1つとなるバラに出会います。
 命あるバラの美しさに初めて心を奪われたのは家から炭坑へ歩いていく途中のこと。炭鉱員の宿舎にもバラがあり、以来じっくりと見始めるようになったといいます。バラの前で立ち止まった時のことを尋ねた時、彼はこう語ったことがあります。「われわれの時代はちょっとしたことが命取りになった時代でね。我々美校(※3)卒業生の中でも、あの年、戦争に引っ張り出されて死んだのが多いんだ。わたしも宇部に帰ってきて、ぼやぼやしていると引っ張り出されるぞ、炭鉱員なら徴用がかからんらしいぞ、と言う人がいて、そりゃ、その方がええ、と…。わたしのずるいところですよ。戦争に行ったら絵が描けないからかって?いや、それどころの騒ぎじゃない。だけど、わたしには絵のほかにできることがないんだから」。
 ところが、帰郷して5カ月後の7月、宇部大空襲で自宅を焼失。絵の具箱も描きためた絵もすべて失ってしまいます。翌年、友人のつてで光市に移りますが、1952(昭和27)年、夫人の希望などもあって上京。しかし、絵で生計を立てる暮らしは苦しく、パリの高級婦人服店で働いていた夫人の洋裁の腕に支えられての生活が長い間続いたのでした。

  • ※1 多くの優れた画家を発掘・紹介した「現代画廊」の経営者。『芸術新潮』で長年、エッセー「気まぐれ美術館」を連載し、人気を博した。
  • ※2 随筆『能面』『かくれ里』で読売文学賞受賞。文学評論家の故・小林秀雄(こばやし ひでお)や、骨董(こっとう)の目利きとして知られた故・青山二郎(あおやま じろう)らと交友が深かった。
  • ※3 東京美術学校

参考文献:「松田正平展」図録(山口県立美術館 昭和62年)