2009年10月9日Vol.175山口県広報広聴課

おもしろ山口学

吉田松陰自賛肖像と松浦松洞 [後編]

吉田松陰自賛肖像 松陰神社蔵
吉田松陰自賛肖像
松陰神社蔵
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※前編で紹介した吉田家本のあぐら姿と異なる正座姿の松陰。

 吉田松陰(よしだ しょういん)が、幕府によって1859(安政6)年10月27日に江戸で処刑される前、萩で描かれた「吉田松陰自賛肖像」。その肖像を描いた松浦松洞(まつうら しょうどう)とは、どのような人物だったのでしょうか。
 松洞は1837(天保8)年、萩で商人の子として生まれました。幼いころから絵が好きで、京都に出て南画家の小田海僊(おだ かいせん)(※1)に師事します。その後、萩に戻り、20歳のとき、当時の画家に必要だった漢詩を学ぶため、松陰が主宰していた「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に入門。松洞について、松陰は「才あり気あり、一奇男子なり(※2)」と評しています。
 松洞は1856、1857(安政3、4)年ごろから松陰の肖像を描き始めていました。やがて松陰は萩の野山獄に投じられ、幕府から江戸送りの命令が下ります。松陰は、妹の婿・小田村伊之助(おだむら いのすけ)の勧めで、その複数の肖像画に賛文を書き入れていきました。
 野山獄での松陰の様子について、門下生の久坂玄瑞(くさか げんずい)が高杉晋作(たかすぎ しんさく)にあてた手紙で「僕は獄におられる先生をのぞき見た。からだはやせてとげとげしく、髪が乱れて顔を覆っていた」と書き、心配しています。しかし、松洞が描いた松陰はやつれておらず、松洞の師への尊敬の念が伝わってきます。実際、松陰の顔は、その画のように面長で鼻は高く、色白で、一見威圧感はないけれども、らんらんと鋭く輝く目をしていたようです。松洞は松陰の顔に似せるのに苦心し、幾度も描いては松陰に見せました。松陰は、鏡に自身を映して画と照らし合わせ、その出来栄えを認めました。こうして作られた松陰自賛肖像は松陰の形見として、門下生や松陰の家族に与えられました。
 松陰亡き後、松洞は1862(文久2)年、久坂らとともに京都へ上り、公武合体論(※3)を主張していた萩藩士・長井雅楽(ながい うた)の暗殺を計画しますが、失敗。京都で自刃し、26年の生涯を終えます。
 松陰の面影を今、私たちに確かに伝えてくれる松洞の描いた肖像画。画家で門下生、維新の志士でもあった松洞は、彼にしかできない、魂を込めた師弟合作の作品を残し、松陰の面影を後世に伝えたのでした。

  • ※1 現在の山口県出身。京都で四条(しじょう)派の絵を学んだ後、独自の画風を確立し、幕末、京都を代表する画家の一人として活躍した。
  • ※2 「才能があって気概もあり、普通とは違う優れた男子だ」といった意味。
  • ※3 幕府と朝廷とが協力して政局の安定を図ろうとした主張。

県文書館では、10月24日(土曜日)から11月1日(日曜日)まで、県文書館開館50周年記念「吉田松陰没後150年記念 吉田松陰自賛肖像展」が開催されます。