2009年9月25日Vol.174山口県広報広聴課

おもしろ山口学

吉田松陰自賛肖像と松浦松洞 [前編]

絹本着色吉田松陰自賛肖像(吉田家本)
絹本着色吉田松陰自賛肖像(吉田家本)
県文書館蔵
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 今年は、幕末の思想家・教育者、吉田松陰(よしだ しょういん)が1859(安政6)年に亡くなって150年に当たります(※1)。
 松陰は1857(安政4)年から松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰していました。1858(安政5)年6月、幕府は天皇の勅許を得ないまま、日米修好通商条約を結び、開国します。松陰は幕府を批判し、老中襲撃計画を立て、萩の野山獄に入れられます。
 やがて幕府による「安政の大獄(※2)」が始まり、松陰は翌年5月、江戸へ送られることに。その最後の旅立ちを前に、野山獄に人々が面会に訪れ、松陰に書などを求めました。そこで門下生の松浦松洞(まつうら しょうどう)が描いた肖像画に、松陰が自ら賛文(※3)を書き入れたものが複数作られました。それが「吉田松陰自賛肖像」と呼ばれるもので、松陰は5月17日ごろから萩出発の前日の24日にかけて賛文を書き入れたようです。
 現在、松陰自賛肖像は6本が確認されています。そのうち、門下生の久坂玄瑞(くさか げんずい)、品川弥二郎(しながわ やじろう)、岡部富太郎(おかべ とみたろう)、中谷正亮(なかたに しょうすけ)(※4)に与えたものが4本。残る2本は、松陰の実家・杉家と、松陰が養子に行った吉田家に渡したものです。
 それらを比べると、類似点と相違点があるのが分かります。3本はよく似た構図で、松陰が羽織をまとい、脇差しを差して正座し、右手で書物をめくっています。ほかに、右手で書物を取って左手を帯に差している姿が1本。両手で巻物を縦にして持っているものが1本。そして吉田家のものは唯一のあぐら姿で、羽織もまとわず、くつろいだ姿が描かれています。
 賛文はほぼ同じですが、跋文(ばつぶん=あとがき)は与えた人に応じて異なります。松陰が最後に書いたのは、友人でもあった中谷へのもの。その跋文には、「7通も書いて、すでにあきた」「ああ、あなたはわたしにとって最も古い友人だ。断れるだろうか。まさにここをたとうとする前日の夕べになった」とあり、松陰の人間らしい一面と江戸送りを前にした緊張感が伝わってきます。

  • ※1 1859(安政6)年10月27日に処刑され、29年2カ月の生涯を閉じた。
  • ※2 江戸幕府が尊王攘夷運動に対して行った大弾圧。
  • ※3 画に添えて書かれた詩、歌、文のこと。
  • ※4 久坂は、松陰に長州一の英才と認められた人物。1864(元治元)年の「禁門(きんもん)の変」で自刃。品川は、松陰が大いに期待した人物で、維新後、内務大臣などに就任。岡部は、松下村塾で剣術を指導。維新後は山口県や大阪府などで公職に就いた。中谷は、藩校明倫館の秀才。松陰の友人で門下生。1862(文久2)年に病死。