2009年8月28日Vol.172山口県広報広聴課

おもしろ山口学

疏水百選「藍場川」[後編]

藍玉座跡地

 18世紀の中ごろ、城下町・萩に造られた疏水(そすい)(※1)「藍場(あいば)川」。初め「大溝(おおみぞ)」と呼ばれていたものが、なぜ藍場川と呼ばれるようになったのか。その疑問を解く鍵は、萩市役所の南西、藍場川沿いの「藍場筋(あいばすじ)」と呼ばれていた通りに面した一角にあります。そこには、かつて藍染めの染料である藍玉(あいだま)(※2)を製造していた萩藩直営の「藍玉座(藍場)」が置かれていました。
 江戸時代、藍玉は阿波(あわ)藩(現在の徳島県)産が上質なことで知られていました。江戸時代の中期ごろ、長年の負債が膨らんで財政の再建が必要だった萩藩は、その藍玉作りに着目します。上質な阿波産以外の藍玉を買い入れることを禁じるとともに、藩内の農民による藍玉の自由な製造や取引を禁じて専売制を敷き、藩の収入を増やす政策を立てます。そして藩の撫育方(ぶいくかた)(※3)が、明和年間(1764~1771年)に、藍玉作りに必要な大量の水が確保でき、葉藍 (はあい=タデアイ)などの運搬にも便利な大溝沿いに、藍玉座を設けます。 その後、藍玉座では、改良を重ねた良質な藍玉が製造され、藩内では、それらを使った染め物が作られていき、藩財政を助けます。やがて、藩直営の藍玉座は専売制の廃止を求めた天保年間(1830~1843年)の農民一揆によって廃止されます。藍玉座は、嘉永年間(1848~1854年)に復活しますが、明治時代以降は外国産の藍染料の輸入が進み、萩でタデアイが栽培されることもなくなります。大溝はいつしか、藍場のそばを流れる川ということで藍場川と呼ばれるようになりましたが、藍玉作りの歴史は多くの人々から忘れられていきます。
 そうした中、「萩博物館」と、萩の「まちじゅう」の魅力について再発見・保全継承を目指す「NPO萩まちじゅう博物館」では、協働して2008(平成20)年に「あい班」を立ち上げ、タデアイの栽培や藍染めの技術を学ぶことを始めました。その取り組みから今、藍場川の名にまつわる歴史に再び光が当たり、水のまち萩の魅力を再発見しようという市民の動きへとつながり始めています。

※1 かんがい・水運用などのための水路。
※2 タデアイの葉を発酵・乾燥させ、保存・運搬しやすいように突き固めたもの。
※3 萩藩の藩政改革で設けられた、経済政策を担った部署。