2009年8月14日Vol.171山口県広報広聴課

おもしろ山口学

疏水百選「藍場川」[前編]

藍場川

 阿武(あぶ)川の下流域、松本川と橋本川に挟まれた三角州に築かれた、毛利(もうり)氏の城下町、萩市。その三角州を約2.6キロメートルにわたって流れる「藍場(あいば)川」という疏水(そすい)(※1)があります。藍場川のほとりには、その流れを屋敷内の庭園の池に引き入れ、さらにその流れを台所のハトバ(※2)に引き込み、野菜や茶わんを洗う水として使い、再び藍場川に戻るようにした武家屋敷が今も残り、観光客に親しまれています。水を大切にした当時の暮らしの知恵がうかがえます。
 町並みにしっくりとなじんでいる疏水ですが、藍場川は江戸時代、城下町を度々脅かした水害との戦いから生まれた人工の川でした。三角州の一部はもともとアシ原の沼地だったため、大雨の度、屋敷や田畑に洪水の被害が生じていたのです。1687(貞享(じょうきょう)4)年には、萩藩3代藩主・毛利吉就(よしなり)が「水はけのために溝川を開削したい」と幕府に願い出て、三角州の河口近くを東西に結ぶ「新堀(しんぼり)川」を造ります。しかし、その後も洪水の被害は続きました。
 やがて18世紀の中ごろ、6代藩主・毛利宗広(むねひろ)が参勤交代の途上、岡山藩の城下町・岡山に立ち寄ります。その際、岡山藩の藩主・池田氏が、城下の2つの川を結ぶ大きな溝「倉安(くらやす)川」を開削し、その川が城下に舟で物資を運ぶ水運や新田へのかんがいに役立っていることを知ります。毛利宗広は萩藩の当職(とうしょく)(※3)に倉安川をモデルにした大きな溝の開削を命令。一部開削されていた農業用水路を広げて延長し、新堀川に注ぐ水路「大溝(おおみぞ)(※4)」を造らせました。大溝は洪水の際の排水や農業用水、水運、防火用水にも役立つ川となって城下町を支えます。また、大溝の水は生活用水でもあるため、萩藩はごみの投げ捨て禁止や清掃などについてのお触れを出し、清らかな流れを守ってきました。
 大溝はやがて藍場川と呼ばれるようになりますが、環境を守る取り組みは時を超え、現在、川の一斉清掃やごみの不法投棄防止のための巡視、コイの放流などが官民一体で続けられ、2005(平成17)年度には、「疏水百選(※5)」に認定されました。


  • ※1 かんがいや給水のため土地を切り開いてつくった水路
  • ※2 川沿いに階段を作って水に近づけるようにした所
  • ※3 萩藩の国許(くにもと)の行政全般を担当した重職
  • ※4 藍場川の江戸時代の名称
  • ※5 疏水を農家だけでなく、地域住民や都市住民も含めた国民全体によって保全し、次世代に継承していく運動を進めるため、農林水産省が平成17年度に実施したもの。