2009年7月24日Vol.170山口県広報広聴課

おもしろ山口学

歴史の因縁を秘めた国宝・瑠璃光寺五重塔

瑠璃光寺五重塔

 室町時代、山口を本拠とした守護大名、大内(おおうち)氏。山口市には、大内氏の隆盛を示し、今に残る建築物のひとつに「瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔」があります。瑠璃光寺五重塔はゆるやかな勾配の桧皮葺(ひわだぶ)きの屋根が美しく、室町時代の優れた建築として、国宝に指定されています。しかし、そもそもは瑠璃光寺の五重塔ではありませんでした。五重塔建立の経緯は室町幕府3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)の時代にさかのぼります。
 将軍義満は有力な守護大名の力を利用して幕府の体制強化を図る一方で、その力の弱体化も図った人物でした。当時、大内氏の当主だった義弘(よしひろ)は、将軍義満から通字(とおりじ)(※1)の「義」を拝領するほど、将軍義満と深いつながりをもっていました。しかし、朝鮮王朝との交易によって財力や軍事力を蓄え、西国一の勢力に成長した義弘は、将軍義満と次第に対立を深めていきます。そして、ついに1399(応永6)年に堺(大阪府)で挙兵しますが、敗れて亡くなります。
 大内義弘は生前、山口に香積寺(こうしゃくじ)を建立していました。将軍義満と戦って無念の末、敗死した大内義弘の菩提のため、跡を継いだ弟の盛見(もりみ。あるいは、もりはる)は、香積寺の境内に五重塔を建立。その完成は1442(嘉吉2)年とされています。
 それから約150年後、山口は毛利(もうり)氏の領地となり、江戸時代になると萩に毛利氏の城下町が築かれます。香積寺は萩へ移され、毛利輝元(てるもと)の隠居所に(※2)。五重塔も萩へ移すことになりましたが、山口の人々が町奉行へ嘆願書(※3)を出し、残ることになった、といいます。
 1690(元禄3)年、香積寺の跡地には山口市仁保(にほ)にあった瑠璃光寺が移されます。瑠璃光寺は、大内氏の重臣だった陶弘房(すえ ひろふさ)の菩提寺。そして、そのひ孫に当たる陶隆房(たかふさ)は挙兵し、主君・大内義隆(よしたか)を自刃させ大内氏滅亡のきっかけをつくった運命の人。今、陶氏の菩提寺を見守る美しい五重塔は、歴史の因縁を秘めた塔なのです。

  • ※1 その家に代々伝えられ、名前に付けられる文字。
  • ※2 『防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)13 山口宰判(さいばん)下』(山口県文書館編)による。
  • ※3 「山口町家中(やまぐちまちやちゅう)歎願書」(『常栄寺史料』、常栄寺発行。)による。