コンテンツ2008年6月27日Vol.144 山口県広報広聴課

おもしろ山口学

松下村塾の人々 -乱民から志士へ- 著/一坂太郎(萩市特別学芸員)

松下村塾
松下村塾
 幕末、アメリカのペリー率いる黒船艦隊が来航し、空砲を放つなどの強引な態度で幕府に開国を迫った。危機感を募らせた吉田松陰(よしだ しょういん)は1854(安政元)年3月、伊豆下田に停泊中だったアメリカ艦に乗り込もうとしたが、失敗。故郷である長州萩に送り返され、幽囚の身のまま松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰する。
松下村塾からは、幕末から明治にかけての日本をリードすることになる、多くの人材を輩出した。しかし当時、萩で平凡な生活を送る人々にとり「松陰」や「松下村塾」は、なかなか理解し難い存在だったようだ。松陰は幕府の開国政策に激しく反対し、ついには老中の暗殺計画まで立てる。危険視されて当然であろう。
門下生の一人・野村靖(のむら やすし)は後年、幕末当時、自分たちは周囲から「乱民」呼ばわりされ、家族までが村八分にされたとの悲しい思い出を語り残している(『追懐録』)。だから大半の親は、息子が松陰に近づくのを嫌った。
19歳の1857(安政4)年秋に入門したとされる高杉晋作(たかすぎ しんさく)もまた、反対する家族の目を盗み、松下村塾に通い続けた一人である。晋作は16歳のころ、父に従い黒船騒動で沸く江戸に赴き、日本の危機を目の当たりにしていた。晋作の松下村塾通いは、そうした体験と無関係ではないと考えられる。
だが、幕府の反対派弾圧である「安政の大獄」に連座した松陰は、1859(安政6)年10月27日、江戸で処刑された。世間の風当たりはますます厳しくなったが、門下生たちは松陰の志を継ぐ決意を強固にしていく。
門下生たちの命懸けの奔走(ほんそう)が、やがて長州藩を動かす。そして攘夷、討幕と進み、「明治」と改元されたのは、松陰の死から9年後のことであった。だがその過程で、晋作をはじめ多くの門下生が非業の死を遂げた。彼らはいま、暗闇の中を、その先に見える一条の光を信じて歩き続けた先覚者、「志士」と呼ばれる。歴史が評価するとは、そういうことであろう。



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