コンテンツ2008年2月8日Vol.135 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
やまぐちと連歌

【第1回】大内文化と連歌

宗祇の句碑「池は海 木ずえは夏の 深山かな」宗祇の句碑
「池は海 木ずえは夏の 深山かな」
  西国一の守護大名とうたわれた大内(おおうち)氏がひらいた山口には、京都の人々との交渉を通して中央の文化が摂取されるとともに、朝鮮や中国・明との交易によって大陸文化が招来し、いわゆる「大内文化」が育まれました。
 源氏物語、和歌や連歌といった王朝文芸に深く通じていた第29代・政弘(まさひろ)(1446~1495)は、応仁・文明の乱(1467~1477)で10年余り滞在した京都で、公家や文化人との交流を深め、後に、荒廃していた京から山口へ彼らを招き、大内文化の興隆(こうりゅう)に尽力しました。その中に、連歌師・宗祇(そうぎ)がいました。
 連歌は、五・七・五の17音からなる長句と七・七の14音からなる短句とを、交互に、複数人で詠みつないでゆく文芸です。相手の表現の趣旨を理解した上で、自分の表現をそれに沿わせるもので、深いコミュニケーション能力が必要とされますが、一人で詠む和歌に比べて、一座の人々と感動を共有することができる点に面白みがあります。また、句数や句の優劣を競って、勝者には景品や褒美が贈られることもありました。
 連歌は、平安時代後期には長句と短句の二句一章31音のみからなる短連歌が主流でしたが、次第に長く詠みつがれるようになり、鎌倉時代には100句で終結する百韻(ひゃくいん)の形式が確立されます。 百韻の第一句は発句(ほっく=五・七・五)と呼ばれ、これに脇(七・七)を付けて場面を作り、次に第三(五・七・五)を付けて場面を変化させ、100句目の挙句(あげく=七・七)で終わります。南北朝期には、句の展開を図るために、さまざまなルールも定められました。優れた連歌師が登場し始めるのもこの頃です。
 そして、室町時代になると、連歌は「座」の精神※の発達と相まって能楽や茶の湯と並ぶ代表的な遊びとなり、貴族の邸宅や神社の境内などで連歌会が盛んに催されるようになりました。
 山口でも、高名な連歌師・宗祇を迎えるなどして、連歌会が盛んに催されました。
[宗祇の連歌発句]
世にふるもさらに時雨の宿り哉

※「座」の精神
「座」とは、多くの人が集まっている集会の席を意味します。
「座」の精神とは、この席に集まった主客同士が交友関係を深め、誠心誠意思いをこめて真剣に人と人との関係を再確認すること。茶の湯でいう「一期一会」と似通うことでもあります。

【第2回】連歌師・宗祇

宗祇坐像(一部)
宗祇坐像(一部)
県立山口博物館所蔵
 連歌師とは、大名や公家などに招かれて連歌を興行し、連歌の指導を仕事とした人です。香や茶の湯などの諸芸に通じ、古典の講義をすることもありました。連歌師・宗祇(1421~1502)は、若いころ京都の相国寺(しょうこくじ)で過ごした経験を持ち、30歳のころ連歌師として立つことを志します。生涯、歌枕(歌に詠まれた名所)を求めて、日本各地を旅したことでも知られ、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉(まつお ばしょう)の旅も宗祇の影響を受けたものでした。
 宗祇は大内政弘に迎えられて、山口を2度訪れています。
 最初は1480(文明12)年、宗祇60歳のころです。連歌会は、大内氏の館である築山館(つきやまやかた)(山口市上竪小路)などで催されました。現在、築山館の跡に、その広大な庭を山海に例えてたたえた宗祇の発句「池は海 木ずえは夏の 深山かな」の句碑が建てられています。宗祇は山口からさらに足を延ばし、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)にも参詣しています。その旅の途中、政弘の支配下に入ったばかりの北部九州の領主たちと交流した宗祇は、山口で政弘から受けたもてなしや器量を知らせ、彼らに政弘の力の強大さを伝えるとともに、山口に戻ると、旅の様子を『筑紫道記(つくしみちのき)』という紀行文にしたためて、領国内の政治情勢を政弘に報じたともいわれています。京都に戻った宗祇は、その後、将軍・足利義尚(あしかが よしひさ)から北野連歌会所奉行職※1を命じられるなど、名実ともに連歌界の第一人者となりました。
 2度目の訪問は1489(延徳元)年のことで、大内氏やその重臣たちの連歌会を熱心に指導したほか、『伊勢物語』を政弘に講釈したりしました。
 この2度にわたる山口への訪問を一つのきっかけとして、政弘にさまざまな援助を仰ぎながら、宗祇は、自らが中心となって『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』を編さんすることになります。これは、政弘の75句を含め、約250人、約2,000句の有心(うしん)連歌※2の集大成であり、1495(明応4)年に後土御門(ごつちみかど)天皇から勅撰(ちょくせん)※3に准ずるものとして認められました。編さんに尽力した政弘はくしくも、これと時をほぼ同じくして亡くなっています。
 『新撰菟玖波集』は、現在でも連歌芸術の最高峰として高く評価されています。

※1 北野連歌所奉行職
京都の北野天満宮の連歌会所で催す室町幕府主催の連歌会の運営に当たる職名。この奉行が将軍家の連歌指導も行っていました。

※2 有心連歌
滑稽を目的とした無心連歌に対し、和歌を手本として優雅な題材や用語などを使う連歌のこと。

※3 勅撰
天皇の命令によって、和歌集や漢詩文集、文集などを編さんすること。

【第3回】連歌の衰退と復興

山口祇園会七百韻発句山口祇園会七百韻発句
仁壁神社所蔵
 連歌は江戸時代になると、公家や武家などから次第に有力な町人の間にも広まっていきます。
 山口でも、山口祇園(ぎおん)祭で、初日の旧暦6月7日から13日にかかる毎夜、御連歌所[おれんがどころ、別名:笠着堂(かさぎどう)、山口市米屋町]で一晩につき百韻、合計七百韻の連歌が興行されたと『防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)』※1に記されています。最終日の14日には、七百韻を書き留めた懐紙(かいし)※2を山口祇園社(現:八坂神社、山口市上竪小路)へと戻っていく神輿(みこし)にかけて奉納し、また藩主にも献上していたようです。
 祇園祭のほか、今八幡宮(山口市八幡馬場)、仁壁(にかべ)神社(山口市三宮2丁目)、今天神(現:古熊神社、山口市古熊1丁目)でも行事の際に連歌が興行、奉納されました。これらの連歌会では、宮司が連歌会を進行する宗匠を務めていたようです。2005(平成17)年に仁壁神社から発見された、文政年間(1818~1829年)ごろに宗匠を務めた宮司の資料から、当時の連歌会の様子が明らかとなりつつあります。
 連歌は明治時代になると、山口を含め、全国的に廃れていきました。これは連歌会の多くが藩の行事であったため、廃藩置県で藩がなくなったことにより詠まれる機会が失われたことが主な理由のようです。
 以来、150年近く途絶えていた山口の連歌ですが、仁壁神社の資料発見を機に、「山口での連歌の伝統について理解を深めたい」と興味を持つ人が増え、「山口の誇るべき文化の伝統や精神を受け継ぎ、再び連歌をよみがえらせよう」と、「山口連歌の会」が2006(平成18)年5月に発足しました。山口連歌の会は、同年開催された「第21回国民文化祭やまぐち2006・街なか生活文化祭アートふる山口」で連歌会を開催し、また、毎月第一日曜日には「月次(つきなみ)連歌会」を持つなど、多くの人が連歌の魅力に触れる機会を積極的に作っています。
 今、山口の地で連歌が、地元の人々の情熱と努力によりよみがえりつつあるのです。
[山口祇園会七百韻発句 紹介]
祭る日の 物見は木偏に累子 竹筒哉
夏山の幸(さち)は 弓弭(ゆはず)の 御調(みつぎ)哉
五衣(いつつぎぬ) 夏は二藍(ふたい)の 一重(ひとへ)かな
海松房(みるふさ)は 千尋(ちひろ)も祝ふ 真髪(まがみ)哉
日にかるゝ 夏野も寒し 月の霜
夕涼 誰(たれ)か木陰を 離れ松
あまがつよ 禍(まが)をゆらづむ 夏祓(なつばらへ)

※1『防長風土注進案』
1841(天保12)年、萩藩が、領内の実態を把握するため、各村から提出された書類を編さんしたもの。風俗、年中行事、産業、産物のほか、寺社などの古文書も掲載されています。

※2懐紙
畳んで懐に入れた半紙のこと。茶会席では菓子の下に敷いたり、盃の縁などを拭(ふ)いたりします。和歌や連歌を詠む際の書き付けにも用いられるようになりました。

取材協力/山口大学人文学部言語文化学科 准教授 尾崎千佳(おざき ちか)氏


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