コンテンツ2007年11月9日Vol.129 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
努力が生んだ山口県の発明家 柏木幸助

【第1回】安全マッチの製造

柏木幸助柏木幸助
 化学者や発明家たちの多くが、海外や東京などの著名な学校で学んだ時代に、三田尻(みたじり)(現在の防府市)から出ることなく、独学で数々の発明に成功した柏木幸助(かしわぎ こうすけ)(1856~1923)という人物がいました。幸助は、安全マッチを製造した後、留点体温計(※)の製造法を日本で初めて発明。さらには、後に柏木ジアスターゼと名付けられる消化酵素ジアスターゼの一種も発見しました。幾度の困難を乗り越えてさまざまな発明や地域の発展に取り組んだ努力の人です。
 幸助は、代々続く薬種商に生まれました。当時の三田尻は「防長における蘭学発祥の地」と呼ばれ、華浦(はなのうら)医学校も設置されていました。ここで幸助は化学を学びながら、安全マッチを製造したといわれています。マッチは1827(文政10)年にイギリス人のウォーカーによって発明され、日本には長崎に天保年間(1830~1844年)ころに舶来。明治の文明開化とともに生活様式が一変したことで普及し始めました。
 幸助は、すべて独学でマッチを分析し、使用される薬品を突き止め、1875(明治8)年に当時主流であった黄燐(おうりん)マッチを製作します。しかし、これは少しの衝撃でも発火する危険なものでした。そこで、幸助は発火薬に赤燐(せきりん)を用い、マッチ箱の側面に摩擦熱を生ずる薬をつけて、側面で棒をこすらないと発火しないマッチを製作。このマッチは、黄燐マッチより安全であったことから「安全マッチ」と呼ばれました。1877(明治10)年には、近隣の俸禄を失った士族を雇って安全マッチ工場を操業。幸助の安全マッチは第1回内国勧業博覧会で賞を受け、大きな注目を浴び、事業は急成長していきました。しかし、1882(明治15)年2月、薬品の調合を誤り、工場が焼失します。幸助自身、その火災で大火傷を負ったため、父に工場再建を許されず廃業せざるをえなくなりました。
 工場再建への願いが断たれた幸助ですが、次に、外国製で高価だった体温計に着目し、その製作に取り組みます。

※留点体温計…体から離しても温度表示が下がらない体温計のこと。

【第2回】体温計製造の道のり

留点体温計留点体温計
 当時の外国製の体温計は、無留点体温計(※)でした。幸助は、生家の柏木薬舗の店内に掛けてあった寒暖計にヒントを得て、体温計の製作を志すようになります。
 1880(明治13)年6月、西日本で手広く商売していた大阪・白井松医療器械店の白井治兵衛が柏木薬舗に立ち寄った際、幸助は「験温器(当時の体温計の呼び名)を作りたい」と相談しますが、「君の才能と研究心をもってしても、とてもできますまい」などと言われ、問題にされませんでした。しかし、「外国製で高価であった体温計を国産化できれば大きな国益になる」との強い思いから、その後も幸助の体温計製作への情熱が冷めることはありませんでした。実はこのころ、既に東京でも体温計が製造されていましたが、どうやら幸助はそれを知らなかったようです。
 1882(明治15)年秋、幸助は柏木薬舗の店先で、偶然、宇部出身のガラス職人・惣兵衛と出会います。この運命的な出会いから、ガラス製造技術を得ることができた幸助は、やがて本格的な体温計製作に着手します。しかし、極細の毛細管(水銀が上昇・下降するためのガラス管)を作るためには高度な技術を必要とし、体温計の製作は困難を極めました。そんな矢先に惣兵衛が急死。製作には、多くの時間と経費がかかるため家業にも影響を与え、幸助は生涯で最大の危機を迎えます。しかし、幸助はこの苦境にくじけることなく、かつてマッチ工場で働いていた手先の器用な者を雇い、体温計製作の試行錯誤を続けます。
 1883(明治16)年9月、努力が実り、ついに無留点体温計が完成します。翌月、自宅敷地内に無留点体温計の工場をつくり、本格的に製造を開始。製造に至る幾多もの困難を乗り越えたことで、幸助は後に日本初の留点体温計の製造法を発明することとなるのです。

※無留点体温計
寒暖計と同じく温度によって水銀が上がったり下がったりする体温計。体に当てたまま目盛りを読みます。

【第3回】柏木体温計誕生と地域貢献

ソラール前の幸助の銅像ソラール前の幸助の銅像
 体から離しても水銀が下降せず手元で目盛りが読める留点体温計が、ドイツで発明、輸入されると、幸助も留点体温計の研究に取り組み始めます。幸助はすでに、棒状の毛細管の根元を漏斗(ろうと)状に狭くして水銀溜まりに接続させると、水銀は体温に応じて上昇するものの、体温計を体から離しても細い漏斗のために下降できないという仕組みを理解していました。試行錯誤を繰り返し「いかにして毛細管の根元を漏斗状にするか」という技術的な難問を克服した幸助は、1885(明治18)年、国産初の留点体温計である「柏木体温計」を完成させます。柏木体温計は舶来品よりも安く、手に入れやすいことから日本中で販売され、外国製品の輸入が途絶えた第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)(1914[大正3]年)後は国内市場を独占し、逆にヨーロッパやアジア諸国へ輸出されていました。柏木体温計の生産は1959(昭和34)年まで続きました。
 幸助は薬剤師として消化酵素「ジアスターゼ」の一種を発見して医療業界からも注目されたほか、醤油(しょうゆ)の醸造を速める方法や、アルコール度数を90度以上に精製できる蒸留器を発明しています。これらの発明のみならず、幸助は地域活性化の先駆者でもありました。マッチや体温計の工場では、俸禄を失った士族を雇い、授産を行いました。また、三田尻港の築堤や三田尻海水浴場の開設、周陽学校(現在の県立防府高等学校)の正規中学校への昇格などにも尽力しました。
 決して発明だけにのめり込むことなく、地域に根差した実業家としての顔も持ち合わせていた幸助。彼の業績をたたえ、防府市青少年科学館(愛称ソラール)には「柏木幸助の発明」コーナーが設けられ、幸助が発明した体温計の製造工程などが展示されています。また、屋外の広場では杖をついた幸助の銅像が、優しいまなざしでふるさとの今を見つめています。

取材協力/防府史談会理事 重枝慎三(しげえだ しんぞう)氏
防府市広報室長 森川信夫(もりかわ のぶお)氏

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