コンテンツ2007年9月28日Vol.126 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
“時代を切り取る目”林 忠彦

【第1回】写真館の息子として

林忠彦
林 忠彦[1918-1990]
写真提供
周南市美術博物館
 バーのカウンターでスツールに腰かけ笑う作家・太宰治(だざい おさむ)。この作品は、太宰の退廃的なイメージと戦後の世相を的確にとらえ、一躍脚光を浴びました。撮影者、写真家・林忠彦(はやし ただひこ)は、人物写真家として、対象を深々と凝視するリアリズムに挑戦し続け、また、二科会写真部創設に尽力し、戦後の写真界に大きな足跡を残しています。
 彼は1918(大正7)年、都濃(つの)郡徳山町(現在の周南市)で祖父竹治郎が始めた写真館の長男として生まれました。幼稚園の頃から、暗室で焼き付け現像のまねをして遊んでいたそうで、初めて写真を撮ったのは10歳ごろ。母親にドイツ製のカメラを買ってもらい、自分の身の回りの風景や人物をファインダーの中に収める面白さを知りました。彼は、一瞬を切り取る「写真」という表現手法に幼い頃から自然となじんで育ちました。
 1935(昭和10)年、徳山商業学校(現在の徳山商工高等学校)を卒業後、大阪の写真館へ修業に出ますが、肺結核を患い、1年半ほどで帰省、入院します。退院後は下松のアマチュア写真クラブに入って、写真に熱中する日々を過ごしました。彼は次第に、きちんと場面を設定して撮る写真館の仕事ではなく、動き続ける世相を撮る報道写真にひかれていきます。
 1939(昭和14)年、上京し、オリエンタル写真学校で学んだ後、東京光芸社に写真家として入社。「婦人公論」「写真週報」「アサヒカメラ」などに作品を発表するようになります。時代そのものが揺れ、うねり続けているときに、目の前で繰り広げられるさまざまなものを、林はリアルに印画紙の上に焼き付けていこうとしたのです。1942(昭和17)年、24歳の時、華北弘報写真協会を結成し、中国の北京に渡り、戦時下の様子を精力的に撮影し続けました。
 1946(昭和21)年、仙崎港(長門市)へ引き揚げてきますが、郷里の林写真館は戦災で焼けてしまっていました。翌月には上京して撮影の仕事を再開します。

【第2回】印象的な写真群

煙草をくゆらす戦災孤児
「煙草をくゆらす戦災孤児(上野)」
[『カストリ時代』1946年]
写真提供
周南市美術博物館
 林忠彦は、戦中戦後の混乱期に生きる人々の様子や社会風俗、文士シリーズから始まる『日本の作家』・『日本の経営者』・『日本の画家108人』・『日本の家元』といった人物写真、日本各地やアメリカをはじめとした海外の風景写真など多くの作品を残しました。
 戦災孤児たちがたくましく生きているさまを写した「煙草をくゆらす戦災孤児(上野)」は、戦争直後の混乱期から復興の兆しが見える昭和20年代の様子を鋭く切り取った作品であり、写真集『カストリ時代』に収められています。
 彼の出世作といえる銀座のバー「ルパン」のカウンターでの太宰治の写真は、同じころ撮影されています。人気作家・織田作之助を撮影していたら「俺も撮ってくれ」と叫ぶ男がいました。それが当時売り出し中の太宰。広角レンズを持ち合わせておらず、狭い店内で後ろに下がるスペースもなく、便所の戸を開け、便器にまたがりながら、苦心して撮った1枚だったそうです。
 日本人初のノーベル文学賞に輝いた川端康成。林は、川端を20年近く撮り続けていますが、目が鋭く見透かされているようで怖くて、近接での撮影ができなかったといいます。その厳しい眼光が印象的なショットは、川端がノーベル賞受賞直後で機嫌がよく、近寄ることができたので撮影できたようです。
 昭和50年代に入ると、彼は風景写真に挑戦します。63歳の時に、激動の明治維新の空気、志士たちを育んだ風土を現代の風景の中に探るというテーマのもと、郷土山口県を撮った写真集『若き修羅たちの里-長州路』を発表しています。郷土を撮るのは長い間の念願であり、抱えていた連載や海外撮影の合間を縫いながら東京と山口を行き来して撮影した日々は、彼にとって楽しいものだったようです。
 「股旅の忠さん」とあだ名がついていたほど旅行好きだった彼は、ガンの宣告を受けながらも1987(昭和62)年、最後の仕事として、長年温めていた『東海道』に取り組みます。途中、脳内出血で半身不随となりながら、消えつつある江戸時代の面影を現代の目で記録しておきたいとういう一心で撮影を続け、約3年をかけて完成させました。

【第3回】故郷に光り続ける星-林忠彦賞

林忠彦記念室写真提供
周南市美術博物館
 林忠彦は自分の作品を発表しながら、プロの写真家の作家としての権利を守り、写真を社会に広めるため、1950(昭和25)年に木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄たちとともに、日本写真家協会を創立し、またその後の振興に尽力しました。一方で、1953(昭和28)年には秋山庄太郎、大竹省二、早田雄二とともに二科会写真部を創設しました。二科会はアマチュアからプロまで広く参加でき、新傾向の作家にも活躍の場を与えている美術団体です。林は全国の写真家仲間に参加を呼びかけ、地方で二科展が開かれると出かけていって宣伝したり、彼らと酒を酌み交わしたりもしたそうです。アマチュアが世に出る場を作り、その資質向上を応援し、支えたのでした。
 林は、これら写真界における多大な貢献が認められ、1988(昭和63)年に勲四等旭日小綬章を受章。その2年後、プロ写真家生活50周年となる1990(平成2)年の12月、肝臓ガンのため72歳で亡くなりました。
 徳山市(現周南市)と同市文化振興財団は彼の業績を記念し、1992(平成4)年2月、アマチュア写真の振興を目的に「林忠彦賞」を創設しました。この賞は、全国の200名近い推薦委員からの推薦作品と一般の公募作品の中から、写真家や写真界関係者などからなる7名の選考委員によって選考されます。現在ではアマチュア写真賞の最高峰とも言われるようになっています。
 また、同市は1995(平成7)年に、林忠彦のオリジナルプリント1,514点を中心とした「林忠彦コレクション」を有する周南市美術博物館を開館しました。館内の「林忠彦記念室」では、彼の生涯を彼の作品やビデオで紹介し、太宰治らを撮った銀座のバー「ルパン」のカウンターも再現しています。林忠彦賞受賞者の作品も毎年コレクションに加えられています。
 激しく移り変わった昭和という時代を見つめながら、その一瞬を鋭く切り取った作品を数多く残した林忠彦。この「林忠彦記念室」は、写真にかけた彼の強い思いを感じ取る場所となっています。

取材協力/周南市美術博物館 学芸員 有田 順一(ありた じゅんいち)氏


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