コンテンツ2007年8月10日Vol.123 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
特別天然記念物 秋芳洞

【第1回】開びゃくの始祖・大洞寿円

秋芳洞の入口
秋芳洞の入口
 秋芳(しゅうほう)町・美東(みとう)町・美祢(みね)市にまたがる日本最大のカルスト台地「秋吉台(あきよしだい)」。その地下には400を超える鍾乳洞が点在し、中でも「秋芳洞(あきよしどう)」は日本最大級の鍾乳洞として、山口県を代表する観光地の一つです。
 しかし、秋芳洞はかつて「滝穴(たきあな)」と呼ばれ、魔物がすむと地元の人々から恐れられていました。その滝穴へ初めて入ったといわれているのが、今から約650年前、秋吉台のふもとにある自住寺(じじゅうじ)で住職を務めていた、雨乞い禅師とも呼ばれる大洞寿円(だいとうじゅえん)です。
 寿円が滝穴開びゃくの始祖といわれるようになったのは、室町時代の1354年の夏、村を襲った深刻な干ばつがきっかけでした。寿円は困窮していく里人たちの様子に心を痛め、雨乞いを決意します。滝穴にこもって断食、座禅をしながら経をあげ続けること37日目、寿円の願いはようやく天に届き、雨が降り始めます。寿円は仏に感謝して滝穴の竜ケ淵(りゅうがぶち)に自ら入水したとも、洞くつ内にあふれた水で溺れて亡くなったともいわれています。その後、寿円の亡きがらは自住寺近くの川で発見され、里人によって火葬に。そして、寿円をしのび、その遺灰を練り込んだ粘土で、座像が造られたといいます。以来、明治時代の中ごろまで、村はひどい干ばつに襲われると、その像を洞内に移して雨乞いを行ってきました。
 この座像「塑造寿円禅師坐像」(※)は「骨灰(こっぱい)の像」とも呼ばれ、現在、秋芳洞の入口脇の開山堂に安置されています。衲衣(のうえ)に袈裟(けさ)をかけ、印を結んだ両手をひざの上に置き、正面を見つめる寿円禅師。秋芳洞から今も絶えずあふれ出る水の流れを、静かに見守り続けています。

※塑造寿円禅師坐像
室町時代の、日本では珍しい、火葬の骨灰を混ぜた塑土で造られた塑像(遺灰像(ゆいかいぞう)という)で、県有形文化財に指定されています。

【第2回】観光開発の先覚者・梅原文次郎

大正の終わりから明治初期頃と思われる洞内の様子
大正の終わりから明治初期頃と思われる洞内の様子
[写真提供]
元秋吉台科学博物館館長 中村久氏
 かつては雨乞いのときにしか近づく人がいなかった「滝穴」。現在の「秋芳洞(あきよしどう)」が広く知られるようになったのは、滋賀県出身の鉱山師、梅原文次郎(うめはら ぶんじろう)の功績が多大です。
 梅原は1904(明治37)年、美東(みとう)町の大田鉱山を経営するため、来県しました。滝穴の話を聞いて好奇心に駆られ、足を踏み入れた彼は、その神秘の世界にとりつかれ、観光化を思い立ちます。まず、英国王立地学協会会員であり、山口高等商業学校(現在の山口大学)の英語教師だったエドワード・ガントレットや、広島高等師範学校(現在の広島大学)の地理学の中目覚(なかのめ さとる)教授に学術調査を依頼し、その結果、滝穴が世界に誇る鍾乳洞であると確信します。そして、洞内に桟橋や渡し舟などを設けて訪れやすくします。1909(明治42)年には、洞内の景観を宣伝するため、大金を投じ、滝穴開窟式(かいくつしき)を挙行します。「世界無比の奇勝」と染め抜いたのぼりを東京から長崎まで150の主要駅に立てる広告作戦を展開。当日は滝穴の竜ケ淵前で10俵余のもちまき、洞内の青天井と名付けられた場所では相撲大会、黄金柱(こがねばしら)※前では蓄音機によるコンサートを開催。また、近くでは、西日本各地から駿馬を集めて大競馬会を催し、優勝者には荷馬車で運ぶほどの賞品を贈呈。この壮大な開窟式に2万人が詰め掛けたといいます。さらに1919(大正8)年、開窟式の規模を上回る10周年記念行事を開催。滝穴は1922(大正11)年、「我が国鍾乳洞中最大で、特に学術上の価値が高い」と国の天然記念物に指定されます。
 しかし、梅原は翌年、巨額の私財を投じたこの地を去ります。全国的な不況の波に襲われたため、あるいは本業の新天地をよそに求めたためともいわれています。
 1926(大正15)年の皇太子(後の昭和天皇)行啓を契機に、「秋芳洞」と佳名(かめい)を賜り、全国に知られるようになりました。

※黄金柱
地下水が天井から滝のようにあふれ出て、その石灰分が長い年月をかけて、宮殿の円柱のような華麗な模様を作り出して固まったもの。当時、まさに黄金色に輝いて見えたという。

【第3回】未知の世界への挑戦者 E・ガントレット

エドワード・ガントレットの胸像
エドワード・ガントレットの胸像
(秋吉台科学博物館所蔵)
 秋芳洞(あきよしどう)の学術的調査を初めて行った人物の一人、エドワード・ガントレットとはどんな人だったのでしょうか。
 彼は1868(明治元)年にイギリスで生まれました。1890(明治23)年に来日すると、東京高等商業学校をはじめ岡山・金沢など全国各地の学校へ英語やラテン語の教師として赴任。山口高等商業学校(現在の山口大学)に勤務していたのは、1907(明治40)年から1916(大正5)年までのことです。
 自分の身にロープを巻き付け、秋芳洞(当時は滝穴)の奥深くまで果敢に挑み、地形を明らかにしていったガントレット。そのときのことを彼の妻・恒(つね)は著書『77年の想ひ出』(植村書店)の中で次のように書いています。「穴の中を極めに入つても生きて帰れた人はないと云(い)はれたくらゐである。穴から1町ほどの奥に更(さら)に地獄の穴と云はれる難所がある。主人はそこの探検がしたくて、とめても聞かずに人夫を雇つて舟を浮かべて入つた。そして鍾乳石の壁に足場を作ることに成功したのであつた」。その本には、同行した僧侶が途中で座り込んで観音経をあげ続けたこと、滝穴から無事出てくると、彼は妻に「ジゴクカラブジモドツタ」という電報を送って郵便局※の職員を笑わせたらしいという逸話も記されています。
 その後、彼は学生を伴い、秋吉台にあるほかの鍾乳洞も探検し、「秋吉台山洞穴略図」を作成。これは、日本の地質学、地形学研究者にとって、石灰岩台地である秋吉台の研究における貴重な資料となりました。彼は、イギリスの雑誌に報告書を投稿し、また、イギリスに帰国の際には講演も行い、秋吉台の鍾乳洞を世界に紹介する先駆けとなりました。
 ガントレットは、秋芳洞の素晴らしさを世間に身をもって紹介したことなどの功績により、1954(昭和29)年に山口県選奨を受賞しています。その2年後、東京で87歳の生涯を終えたのでした。
 なお、彼は、音楽に秀でた一面も持っており、彼の妻の弟である作曲家・山田耕作(やまだ こうさく)の少年時代に、西洋音楽の手ほどきをしたといいます。

※以前は、電報電話局のほか、郵便局でも電報の受付を行ったり、地域によっては、電報の配達をすることがありました。

参考資料/秋吉台山洞穴略図(県立山口図書館蔵)

取材協力/秋吉台科学博物館 館長 配川武彦(はいかわ たけひこ)氏
参考文献/秋芳町史編集委員会編『秋芳町史』(秋芳町 平成16年3月発行) ほか


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