コンテンツ2007年6月22日Vol.120 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
長府歴史回廊

【第1回】豊浦宮の時代

満珠・干珠 満珠・干珠
 長府(ちょうふ)は下関市の南東部に位置し、三方を山に囲まれ、東側が瀬戸内海に面しています。古代は長門国(ながとのくに)の国府(こくふ)が置かれ、中世は忌宮(いみのみや)神社の門前町として栄え、近世は萩毛利(もうり)藩の支藩である長府毛利藩5万石の城下町として栄えました。このため、由緒ある神社仏閣に加え、長府藩時代の街並みや旧跡が数多く残っています。
 『古事記』や『日本書紀』によると、古代、長府が日本の政治の中心となった時期がありました。仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后が、九州の豪族を鎮める拠点として約7年の間「豊浦宮(とよらのみや)」(現在忌宮神社がある所)を置いたといわれています。
 この仲哀天皇と神功皇后には、数々の言い伝えが地元に残っています。中でもよく知られているのが、長府の沖に浮かぶ2つの島「満珠・干珠(まんじゅ・かんじゅ)」のお話です。神功皇后は出兵にあたり、お力添えとお守りをあらゆる神様にお願いし、海の神である住吉の神より「潮干珠・潮満珠(しおひるたま・しおみつるたま)」を授かりました。それは潮の満ち干を操ることができる不思議な珠で、これを使うことにより神功皇后の軍は勝利を収めます。戦から戻ると神功皇后は住吉の神にお礼を申し、2つの珠を静かに海に沈めました。すると、珠が沈められたあたりの海に、美しい緑の2つの島が浮き上がったといわれています。2つの島に関しては、元々あって珠を祭ったことから満珠・干珠と呼ばれるようになったというお話もあります。
 2つの島は、同じような形のため、たびたび名前が入れ替わりますが、地元の漁師たちは昔から「前の島・沖の島」と呼び、下関市では合わせて「満珠・干珠」と呼んでいます。また、昭和13年に長府の浜一帯に工場が建つまでは、忌宮神社からも眺めることができたようです。

【第2回】国府の時代

和同開珎銭笵残欠
和同開珎銭笵残欠
(わどうかいちん
せんぱんざんけつ)
写真提供:長府博物館
 646(大化2)年、大化の改新によって地方統治の単位として国が定められ、その国ごとに国府が置かれることとなりました。豊浦津(とよらのつ)に長門国の国府が置かれ、後に、長門国の国府が縮まって「長府」と呼ばれるようになります。
 この地に国府が置かれた理由は、山陽道の終着駅に近く、九州や他国との交通、通商の要衝の地だったからだと考えられていますが、古代中国の風水にも基づいたという説もあります。それは、東に流水、南に池、西に大きな道、北に高い山があれば、それぞれの方角をつかさどる青龍(せいりゅう)、朱雀(すざく)、白虎(びゃっこ)、玄武(げんぶ)の四神が座し、外敵の侵入を防いでくれるというものです。この風水による都市づくりは、平城京や平安京、中世の山口、近世では江戸などにも見受けられます。
 長門国の国府については、遺構の大部分が毛利氏によって城下町が築かれたときに壊されたため、詳細は不明です。その数少ない関連史跡に、長門国の鋳銭司(すぜんじ)があります。鋳銭司とは、日本最初の通貨「和同開珎(わどうかいちん)※」を鋳造(ちゅうぞう)するため全国6カ所に設けられた役所です。長門国では、覚苑寺(かくおんじ)境内に、工場にあたる鋳銭所(ちゅうせんじょ)が確認されています。鋳銭司がいつごろ設置されたかは不明ですが、730(天平2)年には既に操業しており、818(弘仁9)年には国司を兼務する長官以下14人の役人、そのほか多くの役夫がいたようです。しかし、長門国の鋳銭司は、隣国の周防国(すおうのくに、現在の山口県東部)に鋳銭司が設置されたことによって次第に生産量が減少したことや、干ばつや疫病、さらには沿岸警備などへの動員による国力の疲弊によってその役目を終えました。現在、長門国の鋳銭所跡地は国の史跡に指定されており、出土した鋳型の破片などが長府博物館に展示されています。
 
※日本最古の鋳造貨幣は富本銭(ふほんせん)ですが、和同開珎が日本最初の流通貨幣(通貨)であると考えられています。

【第3回】門前町の時代

忌宮神社
忌宮神社
 1185(寿永4)年の壇ノ浦(だんのうら)の合戦で平家が滅亡すると、武士の世へと変わっていきます。鎌倉時代の到来です。幕府は、軍事・警察・裁判をつかさどる役職として各国に守護を置き、長門国では、長府にその役所である守護所を設置しました。なお、国司は鎌倉時代以降も存続していたのですが、徐々に名目だけの官職となっていきました。
 室町時代になると、現在の宇部市を拠点とする厚東(ことう)氏と現在の山口市を拠点とする大内(おおうち)氏が、長門国の守護職をめぐって争い、1358(文和4)年に大内弘世(おおうち ひろよ)が支配権を握ると、長門国の政治の中心は長府を離れ、大内氏の本拠地である周防国の山口へ移っていきます。
 しかし、鎌倉時代以降、長府は、人々の厚い信仰を受けた忌宮神社の門前町(もんぜんまち)※1としてにぎわっていました。門前町の商人や職人は、忌宮神社などから営業や販売の独占権などの特権を認められた同業者組合である座をつくって、活動するようになります。1574(天正2)年などの資料によると、現在の金屋町(かなやまち)には金物屋、南ノ町(みなみのまち)には染物屋、中浜町には呉服屋、中ノ町(なかのまち)には魚屋、惣社町(そうじゃまち)にはざる、ほうきなどを扱う荒物屋などの店が集まって、座をつくっていたことが分かっています。
 1600(慶長5)年の関ヶ原の合戦の後、長府毛利藩は長府の町の南東に串崎城を築き、城下町をつくります。その際、既存の門前町をそのまま、城下町に取り込みました。このため、鍵曲(かいまがり)※2が少なく、見通しの良い街路が並ぶ、神社を中心とした細長い形状の、全国的にも珍しい城下町となっています。

※1 門前町
寺院・神社の参拝客を客とする商人や職人が集まって形成された町のこと。山口県では他に、防府天満宮がある防府市が有名。

※2 鍵曲
見通しが利かないよう、直角に造られた町割りのこと。敵に攻められにくくするためのもので、城下町に多い。

取材協力/下関市立長府博物館 学芸員 古城 春樹(こじょう はるき)氏


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 長府博物館

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