コンテンツ2007年5月11日Vol.117 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
錦帯橋物語

【第1回】「流されない橋」の発想

西湖図連結画像
西湖図連結画像
写真提供:岩国市観光課
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 山口県最大の河川、錦川(にしきがわ)に架かる優美な五連のアーチ橋。日本三名橋の一つ、錦帯橋(きんたいきょう)は、今から約330年前の1673(延宝元)年、岩国藩三代藩主、吉川広嘉(きっかわひろよし)によって創建されました。それまでにも錦川には幾度となく橋が架けられていましたが、増水や洪水のたびにことごとく流失。「流されない橋」を架けることは、初代藩主広家(ひろいえ)からの切なる願いでした。それを実現するには、橋脚のない橋か、流されない橋脚を造るしかない。 そう考えた広嘉は、甲州街道にある『猿橋(さるはし)』(山梨県大月市)の橋脚を使用しない工法を参考にすることを思い付いたといわれています。 しかし、猿橋の架かる桂川(かつらがわ)の川幅は30メートル。200メートルにも及ぶ錦川とは、あまりにも規模が違い過ぎ、技術の応用には至りませんでした。そうした中、広嘉の願いをかなえるきっかけとなったのが、禅僧独立性易(どくりゅうしょうえき)が披露した『西湖(せいこ)遊覧志』です。
 幼い頃から病弱だった広嘉は、29歳のとき、体が米や麦などの穀物を受け付けなくなるという奇病を患います。その治療のために岩国に招かれたのが、明からの帰化僧で、名医としても有名だった独立です。彼は儒学や漢詩、書にも秀でていました。広嘉も漢学に対し深い教養を持ち、明文化に関心を持っていたので、受診の傍ら、独立の故郷・杭州について書かれた『西湖遊覧志』を見る機会を得て、部下に写本を命じました。 そこには、湖に点在する五つの小さな島を、六つのアーチ状の石橋で結んでいる絵図がありました。その絵図を食い入るように見つめていた広嘉は、机をたたいて「これだ!」と叫んだといわれています。今では、この西湖に架かる橋が、錦帯橋創建のヒントになったという説が有力です。
 吉川史料館(岩国市)に現存する『西湖遊覧志』の写本、『鈔存(しょうぞん)西湖志』の題辞には独立が加筆しています。その一節には、広嘉が絵図を見て机をたたいて喜んだ様子が記されています。

【第2回】橋に込められた匠たちの情熱

和釘
和釘
写真提供:岩国市観光課
 長さ約193メートル、幅5メートルの錦帯橋は、木造橋としてはわが国最大の文化遺産といわれています。木造橋の長さは一般的に、100尺(30.3メートル)が限界とされています。しかし、錦帯橋の一つの橋は、それを超える約120尺(35メートル)。これだけの長さの木造橋が、300年以上も前に造られたというのだから驚きです。また、2001(平成13)年に始まった平成の架け替え工事の際に、東京大学・早稲田大学合同チームによって行われた強度実験では、解体する橋は「現在の歩道橋の安全基準を満たしている」ことが確認され、橋の完成度の高さが科学的に立証されました。
 木組みの技術や美しさが強調される錦帯橋ですが、それら橋材を固定する釘にも匠の技が秘められています。平成の架け替え工事で棟梁(とうりょう)を務めた海老崎粂次(えびさき くめつぐ)氏は、愛媛県在住の鍛冶(かじ)職人・白鷹幸伯(しらたか ゆきのり)氏を訪ね、氏の釘を使いたいと頼み込みます。白鷹氏は、和釘や古代の大工道具の復元に熱心で、薬師寺など国宝級の文化財を支える釘を鍛造(たんぞう)する名人です。彼が鍛造する釘は、丈夫で錆(さ)びにくいことから、千年という長い年月に耐えるといわれ、「千年の釘」とも呼ばれています。和釘は一般に目にする釘(洋釘)とは違い、断面が四角いのが特徴で、先端にかけて緩やかなV字を描いているため、水が侵入しにくくなっています。平成の架け替え工事で使用されたのは、桃山時代に城郭建築に用いられていたタイプ。白鷹氏の快諾を得て、5連のアーチ橋全体で約2万本の釘が使われました。その中には、白鷹氏が岩国市の鍛冶職人に技術を伝承し、鍛造された釘も含まれています。
 江戸時代の匠の技を受け継いできた棟梁と、古代の技術を現代によみがえらせた鍛冶職人の出会い、そして、技術の伝承。現在の錦帯橋には、「世界一の橋を架ける」というプライドを懸けた匠たちの情熱が随所に込められています。

【第3回】人柱伝説と石人形

石人形で作った大名行列
石人形で作った大名行列
写真提供:岩国市観光課
 錦帯橋には次のような伝説があります。
 1673(延宝元)年に完成した橋は、明くる年の梅雨の長雨による大洪水で流されてしまいました。そこで、橋を再建するに当たって、水神の怒りを鎮めるため人柱を立てることになりました。ある男が「はかまに横継ぎの当たっている者が人柱になることにしよう」と言い出しました。早速調べてみると、横継ぎが当たっていた者は、ほかならぬその男でした。男には親思いの娘が二人いました。姉妹は父に代わって人柱になることを決心。人柱となって橋台の下に埋められました。その後、橋の下にある石の裏側に、小さな「石人形」がついているのが見られるようになりました。人々は、この石人形を、親孝行な娘たちが姿を変えたものと語り伝えました。
 実はこの「石人形」、実際にはニンギョウトビケラという水生昆虫の幼虫が、川底の石粒や砂を集めて作った巣。巣は水に流されないよう横に大きめの石粒をつけた、10から20ミリメートルの筒状のもので、その姿はミノムシの水中版といったところ。ニンギョウトビケラは、全国各地の川に生息していますが、その巣の大きさや形は、川の上流、下流、水深や水温、流れの速さ、水質など、生息環境によりさまざまです。特に、錦帯橋付近に生息するニンギョウトビケラの巣は形の良いものが多く、その形がまるで人形のようであったことから、いつしか「石人形」と呼ばれるようになりました。昔はこれを集め、七福神などを作るのが、人々の楽しみだったようです。
 1950(昭和25)年のキジア台風で流失した錦帯橋の再建に当たって、掘り起こした橋台の下からは、人骨らしきものは発見されませんでした。錦帯橋の人柱伝説は、276年にもわたって不落を誇った錦帯橋に対して、いつからともなく人々の間に生まれたものだったのかもしれません。

取材協力/岩国市観光課世界遺産推進担当 蔵重隆之(くらしげ たかゆき)氏


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  岩国市観光協会

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