コンテンツ2007年3月23日Vol.114 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
萩のガラス

【第1回】人生を動かした来原良蔵、吉田松陰との出会い

伊藤博文生家(復元)
伊藤博文生家(復元)
写真提供:光市商工観光課
 8人の宰相のふるさと・山口県。その中で初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文(いとう ひろぶみ)は1841(天保12)年、農民の林十蔵(はやし じゅうぞう)・琴子(ことこ)の長男として現在の光市束荷(つかり)で生まれました。幼名は利助(りすけ)。家は貧しく、父は家計を立て直すため、毛利氏の城下町・萩へ。利助も9歳のとき母とともに萩へ移ります。やがて父は長州藩士で足軽の伊藤家の養子となり、利助も伊藤姓を名乗ることになります。
 伊藤が名を成していった理由の一つに、出会いに恵まれたことがあります。中でも彼の人生を変えたのは、長州藩士・来原良蔵(くりはら りょうぞう)との出会いでした。来原との出会いは16歳のときのこと。ペリー来航後、幕府が長州藩に命じた浦賀警備に伊藤は出仕。その際の上司が来原でした。来原は伊藤を気に入り、友人の吉田松陰(よしだ しょういん)が主宰する松下村塾(しょうかそんじゅく)に入れるように推薦。松陰はまだ17歳の伊藤の中に「周旋家(政治家)」としての才能を見抜き、伊藤も実行第一とする松陰の教えに大きな影響を受けます。
 しかし、尊王攘夷派の指導的立場にあった松陰は1859(安政6)年、幕府によって処刑されます。無念の死を遂げた松陰の遺骸を引き取り、「回向院(えこういん)」(東京都荒川区)に埋葬したのが、桂小五郎(かつら こごろう=後の木戸孝允(きど たかよし))と伊藤でした。桂は若い長州藩士のリーダー的存在で、来原の義理の兄でもあり、その後も伊藤は桂の恩をずいぶんと受けたようです。そうしたさまざまな縁を伊藤に結んだ来原も、横浜で外国人襲撃を図ろうとしたことを藩世子・毛利元徳(もうり もとのり)に強く戒められ、1862(文久2)年に切腹します。松陰の遺骨は後に高杉晋作(たかすぎ しんさく)や伊藤らによって現在の「松陰神社」の地(世田谷区)に移され、そこに今、来原も眠っています。

【第2回】イギリス人との出会い

長州ファイブ
長州ファイブ
写真提供
光市商工観光課
 攘夷派として行動していた伊藤博文。彼を開国論へと変えたのは、イギリス留学の体験でした。留学を志したのは、軍備の充実なしに外国と戦うことは難しく、そのためには、まず、西洋の知識や技術を学ぶことが必要と考えるようになったからでした。そして、そのころ同じ志を抱いて長州藩主にイギリス留学を願い出た井上聞多(いのうえ もんた=後の井上馨(かおる))らとともに、伊藤は留学を決意。後に長州ファイブ(※)と呼ばれた5人の若き長州藩士は1863(文久3)年5月、イギリスへ旅立ちます。
 しかし、伊藤と井上の留学はわずか半年で終わります。長州藩が関門海峡で攘夷戦を開始したと知り、留学で西洋の強さを知った2人は無謀な戦いをやめさせようと、急きょ帰国したためでした。横浜で2人はイギリス駐日総領事オールコックに面会。総領事は藩主説得の希望を託し、長州に近い姫島(大分県)まで軍艦で送り届けます。そのとき2人はイギリス人通訳、アーネスト・サトウと出会い親しくなります。
 奔走虚しく、藩主説得は実現せず、英米仏蘭の四カ国連合艦隊は1864(元治元)年8月に下関を報復攻撃。長州藩は敗北します(下関戦争)。講和談判の際、藩の使節として連合軍の軍艦に乗り込んだ高杉晋作(たかすぎ しんさく)に伊藤と井上は通訳として同行し、サトウも連合軍通訳として立ち会いました。
 講和談判後、伊藤はサトウを下関で食事に招きます。そのときのことをサトウは『一外交官の見た明治維新』(訳・坂田精一、岩波文庫)に書いています。「伊藤はわざわざヨーロッパふうの食事を用意しようと、大いに骨折っていた。(中略)よく切れる長いナイフ、凹(くぼ)みの少ない平ぺったい真鍮(しんちゅう)のスプーンとを置き、一対の箸をそのわきに添えた」。料理は、煮たクロハゼ、焼いたウナギ、スッポンのシチューなど。「つぎに、米でつくった甘いビール(味醂)につけた未熟な柿を、皮をむいて四つ切りにしたのが出たが、これは素敵にうまかった」とサトウ。一部不評なものもあったようですが、留学体験を生かした伊藤の精一杯のもてなしでした。

※長州ファイブ
伊藤・井上のほか、井上勝(いのうえ まさる)、山尾庸三(やまお ようぞう)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)。帰国後、さまざまな分野で活躍しました。

【第3回】伊藤博文の人柄

旧伊藤博文邸
旧伊藤博文邸
写真提供:光市商工観光課
 伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのは、1885(明治18)年のことでした。以来、帰郷の機会はなかったものの、ふるさと(現在の光市束荷(つかり))を忘れることはなく、先祖の法要を郷里で行うための洋館を晩年自ら設計しています。法要後は洋館を地元の図書館や公民館にと考えていたようですが、建築が始まった1909(明治42)年、伊藤は中国のハルビン駅で狙撃され、館の完成を見ることなく亡くなります。翌年、洋館は完成し、伊藤の嗣子(しし)(※)・博邦(ひろくに)氏(井上馨(いのうえ かおる)の兄の四男)によって伊藤の願い通り法要のために使われ、後に公民館として利用されました。
 現在、その洋館は県指定有形文化財「旧伊藤博文邸」として公開され、一帯は伊藤公記念公園として整備されています。敷地内には復元された生家や「伊藤公資料館」もあり、資料館では梅子(うめこ)夫人へあてた手紙など貴重な資料を展示しています。中には、まだ読み書きを習熟していなかったころの夫人を気遣って、できるだけ平仮名でつづられた手紙もあり、養子に迎えた幼い博邦氏を実子と分け隔てなく教育してほしいと書かれた内容からも伊藤の人柄が伝わってきます。
 ところで、人柄といえば、気配りがこまやかな伊藤らしい逸話の一つにランドセルのエピソードがあります。もともとランドセルという言葉は、兵士が背負う布製の背嚢(はいのう)を意味するオランダ語の「ランセル」からきたものです。明治時代の学習院で、それまで馬車や人力車で通学していた生徒の体づくりのため、背嚢を使って徒歩通学をさせることになり、1887(明治20)年、当時の皇太子(後の大正天皇)が学習院に入学する際に、お祝いに伊藤が贈ったのが丈夫な箱型の“皮製ランセル”。それが現在のランドセルの原点となったといわれています。今年も間もなく入学シーズン。真新しいランドセルを誇らしげに背中で揺らしながら入学する子どもたちの中に、未来の宰相がいるかもしれません。

※嗣子…跡取りのこと

取材協力/伊藤公資料館 館長 河村雅義(かわむら まさよし)氏


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