コンテンツ2007年2月9日Vol.111 山口県広報広聴課

おもしろ山口学
萩のガラス

【第1回】ガラス製造の歴史

萩のガラス
 近年、萩では「萩ガラス」と称されるガラスが製造されています。萩でのガラス製造の歴史は幕末の1860(万延元)年に始まりました。当時の製造技術は、長州藩の朝鮮通詞(つうじ)※の家に生まれた中嶋治平(なかしま じへい)(1823から1866年)によって、長崎から伝わりました。ガラス製造の目的は、治平が長崎で修得した化学知識を生かして、火薬、医薬品などを研究、製造するために長州藩が開設した舎密局(せいみきょく)で使うフラスコやビーカーなどを作ることでした。
 当初、藩内には、ガラスを製造できる職人がいませんでした。そこで、1860年8月、江戸のガラス職人・西宮留次郎(にしのみや とめじろう)と、その弟子で大坂のガラス職人・長蔵(ちょうぞう)が萩に招かれます。留次郎は、薩摩藩で雇われていたこともあり、萩のガラス製造には江戸、薩摩、大坂の技術も取り入れられたようです。
 1年後の1861(文久元)年に、藩によって化学薬品や医薬品をつくるための研究が中止されると、それまでの実験器具に替わり、ガラス製調度品の製造が始まります。
 製造された盃(さかずき)や徳利(とっくり)などは、朝廷に献上されるようになり、さらに職人の技術と治平による品質改良が行われ、透明度が高く硬質となりました。そして、製造開始から1年足らずで大量生産も可能となり、大田嘉七(おおた かしち)という商人を介して流通販売されていきます。
 しかし、1866(慶応2)年4月1日、製造所が火災で焼失。そして同年12月に、創設者である治平が44歳で生涯を終えます。後に藩は、ガラス製造を嘉七へ委託しますが、製造所の場所や経緯は分かっていません。時代は幕末の動乱期にあり、その後長く萩のガラス製造は歴史上から忘れ去られました。

※通詞:通訳のこと

【第2回】科学者・中嶋治平

萩博物館が所蔵する蒸気車模型
萩博物館が所蔵する蒸気車模型
提供:萩博物館
 萩にガラス製造技術をもたらした中嶋治平(なかしま じへい)は、西洋科学を熱心に研究した多才な科学者でした。幕末期、治平は、アメリカやヨーロッパの軍艦が開国を求めて来航すると、英語やオランダ語を習得する必要性を痛感します。1856(安政3)年に、藩に願い出て3年間ほど長崎に遊学した治平は、語学だけでなく、オランダの軍医ポンペなどに師事して化学を究め、パンの製造、活版印刷、そしてガラス製造など、さまざまな知識を習得しました。
 1860(万延元)年、2度目に長崎を訪れたとき、治平は当時の最新技術であった蒸気機械を購入します。そして、これを切子ガラス製造に用い、人力を省きより繊細な模様を彫り込みました。また、このとき一緒に購入したものに小型模型蒸気機関車があり、同年、藩主に献上し、翌年萩城内の馬場で走らせたという記録が残っています。
 このようにガラス製造を産業として確立するだけでなく、時代の最先端技術を学び紹介した治平は、長州藩の近代科学技術導入の端緒を開いたといえるでしょう。
 ところで、治平が追究した高品質のガラスを製造するには、それにふさわしい原料が必要でした。当初、ガラスの原料として、厚保江舟山(あつえぶねやま)(現、美祢市)から掘り出される珪石(けいせき)が採用され、後に仁保小高野(にほおたかの)(現、山口市)で産出される珪石が利用されるようになりました。今でもこの2つの土地には採掘された跡が残り、珪石を拾うことができます。ちなみに現在、「萩ガラス」と称されるガラスは、萩市笠山(かさやま)の安山岩(あんざんがん)を原料としており、その石に含まれる鉄分のため淡い緑色をしています。

【第3回】幕末の萩のガラス

大村益次郎が拝領した切子盃/写真提供:県立山口博物館
大村益次郎が拝領した切子盃
写真提供:県立山口博物館
 中嶋治平(なかしま じへい)により、本格的な設備のもと製造された萩のガラスは、朝廷への献上品としてだけでなく、家臣への下賜品(かしひん)や他藩への贈答品(ぞうとうひん)としても珍重されていました。
 幕末から明治初頭にかけて活躍し、近代兵制の基礎をつくった大村益次郎(おおむら ますじろう)もガラスの盃を下賜された一人で、1862(文久2)年に、第13代長州藩主毛利敬親(もうり たかちか)から拝領したといわれています。このガラスの盃は霰(あられ)模様が美しい切子盃で、箱書には製造場所と年代が記されており、現在、県立山口博物館に所蔵されています。
 1865(慶応元)年には、第10代藩主の毛利斉熙(もうり なりひろ)の五女で、周防徳山藩第9代藩主の毛利元蕃(もとみつ)に嫁いだ八重姫(やえひめ)にもガラス製の簾(すだれ)、重箱、平盃などが贈られたといわれています。しかし、これらの品物に関して現物は確認されていません。
 また、1867(慶応3)年に、長州藩主が津和野藩主亀井家へ藍色の切子グラス「るり着せコッフ」を贈ったという記録も残っています。亀井家伝来の品で、切子グラスの入っていた箱書からそのことがわかりました。今までは、このような藍色切子のグラスは薩摩切子に分類されていましたが、今後それらの中から、幕末期に萩でつくられた色付き切子細工のガラスが見つかるかもしれません。
 このように、他藩との交流にも用いられた萩のガラスは、残念ながら製造所の火災などにより、その製造は途絶えてしまいます。しかし、科学者中嶋治平のガラス製造に対する熱意は、時代を越えて現代の技術者や作家たちに受け継がれ、新たな製法が加味された「萩ガラス」として萩の地に生まれ変わっています。

取材協力/萩博物館 副館長 樋口 尚樹(ひぐち なおき)氏


関連リンク

 萩・情報の駅

これまでのおもしろ山口学バックナンバー


元気発信!!「山口きらめーる」についてのご感想・お問い合せはこちらまで!

山口県総合政策局広報広聴課
〒753-8501 山口県山口市滝町1-1
電話:083-933-2566 FAX:083-933-2598
E-mail:a11000@pref.yamaguchi.lg.jp
山口県総合政策局 広報広聴課のページへ
元気発信!!「山口きらめーる」に掲載された記事を許可なく転載することを禁止します。
[リンク集]
山口県の県外広報誌 ふれあい山口 VODやまぐち
やまぐち県民電子会議室「コミュニティー維(e)新」 ひとのくに山口ファンクラブ
Copyright(C) Yamaguchi Prefecture 2002-2007 All rights reserved.