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目次 2006年4月28日[Vol.92]号 山口県広報広聴課
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おもしろ山口学

岩国藩鉄砲隊 著/西村栄時(岩国藩鉄砲隊保存会会長)

前編『岩国藩鉄砲隊の歴史』

岩国藩鉄砲隊
 来年、創設20周年を迎える岩国藩鉄砲隊は、昭和62年(1987)3月、砲術流派の伝承と歴史都市・岩国のイメージアップを目指して復興しました。現在、32人の隊員が在籍しており、胴の前面に吉川(きっかわ)家の家紋である「蛇の目九曜(じゃのめくよう)」を描いた鎧を着用し、江戸時代に製作された古式銃を装備して、古式にのっとった火縄銃の砲術を披露しています。設立間もない昭和63年(1988)、神戸で開催された「第2回国民文化祭」に山口県代表として参加したのをはじめ、オーストリアやアメリカなど海外へも遠征し、伝統の砲術を披露してきました。
 火縄銃は天文(てんぶん)12年(1543)、ポルトガルから種子島に伝えられました。当時の日本は群雄(ぐんゆう)が割拠(かっきょ)し互いに争う戦国時代、大名たちは競って鉄砲を入手し勢力の拡大を図りました。慶長(けいちょう)5年(1600)、関ケ原の戦いで敗戦した毛利輝元(もうり てるもと)は、120万石の大大名から防長2州36万石に移封され、従兄弟である吉川広家(ひろいえ)も出雲富田(いずもとだ)12万石から岩国3万石に移されます。その際、岩国に移住した家臣団は約1500名と言われており、その中に正式には鉄砲組と呼ばれた約250名の在籍が記録されています。
 鉄砲組は平穏な江戸時代においては城下守護のため、武芸に励む気概のある階級でした。幕末、戊辰(ぼしん)戦争では官軍として会津方面まで転戦しました。この戦争において従軍戦死した青年藩士たちが会津の地に眠っていると聞いた岩国藩鉄砲隊は、平成11年(1999)の夏、墓参団を組織して福島県富岡町の「竜台寺(りゅうたいじ)」に慰問の旅を行いました。実に、岩国からの訪問は初代岩国市長・永田新之允(ながた しんのじょう)氏以来70年ぶりのことでした。

 

蛇の目九曜
蛇の目九曜
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後編『岩国藩鉄砲隊の砲術流儀-石田流』

実演風景
 岩国藩の砲術の流儀は「石田流」といわれています。わが国で最も古い砲術流派の一つであり、歴史書『岩国沿革史(いわくにえんかくし)』武芸の欄には「慶長年間(けいちょうねんかん)、吉川広家(きっかわ ひろいえ)が出雲富田(いずもとだ)城主のとき、既に砲術の心得があった有坂仁右ヱ門長次(ありさか じんうえもんながつぐ)を家臣に迎え、豊臣秀吉の砲術指南・石田玄斎(いしだ げんさい)のもとで伝授させた」と記されています。長次の死後、「石田流」は有坂家に連綿と受け継がれ明治時代に至ります。22代成章(なりあきら)は、海軍の軍艦の主砲・有坂砲を考案した著名な砲術家で陸軍歩兵中将として活躍しました。
 「石田流」の主な撃ち方には、「立ち放し」「腰放し」「膝台(ひざだい)放し」があり、それぞれ一斉射撃である「斉射(せいしゃ)」、連射する「連れ放し」があります。特異な撃ち方として、狭い場所で敵に包囲されたとき、要人を守るための円陣を組んで、撃ちながら包囲網を突破する「円陣放し」や、役割を分担して撃つ「分業放し」があります。
 「分業放し」は、「弾込め」「口薬(こうやく)詰め」「火縄付け撃ち手」の役割を分担することで、弾込め装填にかかる時間を短縮し迅速に射撃可能な状態を整え、射手を撃つことだけに専念させ命中率を高めるための射法です。
 岩国藩鉄砲隊では隊員の募集を行っています。現在、毎月(3月、8月を除く)第2日曜日には錦帯橋周辺で訓練を行い、毎年4月29日に行われる「錦帯橋まつり」では、ごう音の中、本番さながらの実演を披露します。岩国藩鉄砲隊伝統の砲術をぜひ体感してください。

 

火縄銃の火蓋
火縄銃の火蓋