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目次 2005年12月22日[Vol.84]号 山口県広報広聴課
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おもしろ山口学

吉田松陰の女性観と女性教育 著/清永唯夫(下関・郷土の文化財を守る会会長)

前編『吉田松陰の女性観は?』

絹本着色吉田松陰像(自賛)(山口県文書館蔵)
吉田松陰肖像
 下関市在住の直木賞作家・古川薫氏に『吉田松陰の恋』という作品がありますが、松下村塾で高杉晋作ら多くの志士を育てた教育者というイメージが強く、松陰が女性をどう考えていたかという点を論じられることはあまりありません。
 江戸時代も女性が軽んじられた封建社会の世でしたから、格別に女性観など問題視されなかった面もありますが、実は松陰は、女性を大変重要な存在として認識していた人なのです。
 文政4年の秋、昔の滝部村、現在の下関市豊北町に登波(とは)という女性が居ました。彼女は同居する父・姉・弟の3人を殺害され、夫も深手を負わされたことから、12年間も敵を追い求めて全国各地を旅し、ようやくその所在を突き止めて代官所へあだ討ちを願い出ます。結果的にはその敵は自害してしまいますが、藩は斬首という処刑の形式をとって登波の心情に応えてやるのです。そして松陰は、その登波にも会いに行き、『討賊始末(とうぞくしまつ)』と題する著述をもって烈婦と称賛顕彰したのもその一つの表れでしょう。
 激動変革の時代には、良妻賢母的な受け身の美徳ではなく、自己の一命を大義にかける節母烈婦が居てこそ、その後に孝子忠臣が生まれるのであって、志士たちを内から支えてやれる勇気と思想を持つ烈婦こそ望ましい。そのためにも女子教育が必要だとし、女学校の設立までも主張しているのです。

 

松下村塾
松下村塾
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後編『立派な女性が育てる男子』

吉田松陰幽囚ノ旧宅
吉田松陰幽囚ノ旧宅
 吉田松陰が女性を大切に考えるようになったのも、自分の周囲に立派な女性が居たからではないでしょうか。
 松陰の母親滝さんなども、まさにその立派な女性の一人でした。姑に孝養を尽くし、持ち前の明るい性格で常に家族全員を温かく包み込む姿は、そのまま生きた教育でした。
 松陰は安政4年に国禁をおかして海外への渡航をくわだてて野山獄(のやまごく)に入牢しますが、その獄から出て実家おあずけとなった松陰に対して、単に温かく迎えていたわるというのではなく、父や兄の男性組は、松陰が獄中で行っていた孟子の講義を聞く会を開き、読書会なども行いました。
 また母滝も、松陰の妹千代や親族の女性などを集めて、『武家女鑑(ぶけにょかん)』等の講義を聞く会を開いたのです。それは、何が松陰の心を満たし、彼への励ましになるかを知っていたからなのです。本質的に教師たる松陰の資質を理解していたからこそ、いたわりよりも講義をする機会をつくったのです。
 松陰はこれら女性組を「婦人会」と称していましたが、これがわが国での最初の「女性セミナー」であったと言う人もあります。
 松陰の母滝などをみると、立派な女性が立派な男性を育てるということが納得できるのです。長州の女性がすばらしかったから、幕末にあれだけの優秀な若者が育ち、新しい時代をわが国にもたらしたとも言えるのではないでしょうか。

 

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