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目次 2005年11月25日[Vol.82]号 山口県広報広聴課
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おもしろ山口学

サビエルと大内文化 著/山本一成(大内文化探訪会会長)

前編『サビエルの見た山口』

聖フランシスコ・サビエル
提供:山口サビエル資料館
聖フランシスコ・サビエル
 イエズス会宣教師フランシスコ・サビエルはマラッカで知り合った薩摩出身のアンジローを案内人としてトルレス神父やフェルナンデス修道士を伴って、天文18年(1549)8月、鹿児島に上陸した。
 同地には約1年間滞在し、領主島津貴久から布教の許可を得て活動したが、その後、平戸・山口を経て都である京都に赴いた。サビエルの目的はキリスト教の布教にあったが、戦乱が続く京都ではその見込みが立たず、わずか11日間滞在しただけで引き返した。
 サビエルは大内氏が支配する山口を布教の拠点として選び、天文20年(1551)春、再び来山した。それは第31代義隆(よしたか)の時代で大内文化の爛熟期に当たっていた。
 サビエルはインドやヨーロッパの同志にあてて多くの手紙を出している。その中で「大内殿は日本最大の領主」、「山口の戸数は約1万以上で、町は極めて繁盛している」、「山口の人々は知的好奇心が強い」などと記している。
 サビエルは山口に約5カ月滞在し、義隆から許可を得て布教し、約500人の信者を獲得したと言われている。その後はトルレスに引き継がれ、山口は我が国におけるキリスト教布教の中心地となったのである。

※全国的には「ザビエル」と表記するが、山口では「サビエル」が一般的

 

サビエル記念聖堂
サビエル記念聖堂
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後編『大内義隆時代の山口』

大内義隆の肖像(長門市大寧寺所蔵)
大内義隆の肖像(長門市大寧護国禅寺所蔵)
 サビエルが「日本最大の領主」と記述した大内義隆(よしたか)は「七州の太守」で、周防・長門(現在の山口県)、豊前・筑前(福岡県)、安芸・備後(広島県)、石見(島根県西部)の守護職を兼ねていた。
 大内氏は14世紀の弘世(ひろよ)以来、約2世紀かかって都である京都から公家文化を移し、「西の京」の建設に営々と努めてきた。それは義隆時代に頂点に達し、京都から多くの公卿が山口に下向し、貴族趣味にあふれた大内文化が咲き誇っていた。
 大内氏による山口の町づくりの経済的基盤は対外貿易の利益であった。当時の東アジアは「海に開かれた時代」で、黄海・東シナ海で、盛んに交易や文化の交流が行われていた。大内氏は対外貿易の中継地である博多をおさえ、この海に積極的に進出していくことによって繁栄したのである。大内氏の眼は都である京都だけでなく、より熱く中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなど海外に注がれていた。
 「唐人小路(とうじんしょうじ)」の地名にみられるように、山口には渡来人も居住し、異国情緒にあふれていた。そこへサビエルたちキリスト教の宣教師がやってきて、西洋文化を伝え、山口はますます国際色豊かな都市になったのである。

 

現在の唐人小路
現在の唐人小路
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