元気になるメールマガジン!! 山口きらめーる
 
目次 2005年7月22日[Vol.74]号 山口県広報広聴課
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おもしろ山口学

「壇之浦の合戦 前夜」 著/安元 稔(やすもと みのる)(周防大島ふるさとづくり のん太の会 会長)

前編『義経は800艘を超える水軍の大船団を、大島津(周防大島)に集結させる』

周防大島から瀬戸内海を臨む
周防大島から瀬戸内海を臨む

 波穏やかといわれる瀬戸内海ですが、その海域には随所に波風荒く航海が困難な「灘」が数多く、岩礁や複雑な潮流もあって、それを知らない船乗りたちにはとても恐ろしく危険な海とも言われていました。
 古くからこの危険な瀬戸内海を庭のように移動し、往来する船を待ちかまえ襲いかかっていたのが水軍でした。
 平安時代、巨大な勢力を誇った平家はこの水軍をも支配していました。そして、一門の莫大な富は水軍による外国貿易で築かれたのです。
 屋島の合戦で勝利した義経は、ここから西は平家に味方する水軍が多い瀬戸内海と知り、敵・平家の海の中で拠点を移しながら隠密裏に水軍獲得に没頭したのです。
 屋島の合戦から一カ月、寝返った水軍たち800有余の大船団が、義経が待つここ大島津(周防大島町小松付近※)に結集しました。歴史に出てこない空白の一カ月の出来事です。
 壇之浦の合戦の前には、ここ大島津で源平軍の前哨戦が繰り広げられました。これを「周防国合戦」(吾妻鏡)と呼んでいます。大島津対岸の室津半島周辺には、「周防国合戦」にまつわる史跡がいくつかあります。「池の浦公園」(源平が戦った池の浦の合戦の跡)や「島末城」(平知盛がしばらく拠点とした城跡)、平家神社、平家坂など。
 いよいよ、明日は壇之浦の決戦、直前の瀬戸の海の出来事です。
地図

 

※吾妻鏡(あずまかがみ)…鎌倉時代の歴史書。鎌倉幕府の家臣の編纂(へんさん)。

※「大島津」の解釈には、ここ周防大島町小松付近という説と、周南市大津島という説がある。


後編『なぜ、大船団集結の地に、ここ大島津(周防大島)を選んだのか』

室津半島から眺める瀬戸内海の島々
室津半島から眺める瀬戸内海の島々

 3月中旬、大島津に800を超える大船団が現れました。現在は塩田跡が寂しく残るこの地域ですが、戦上手の義経がここを集結の地に選んだ理由を知るには「平安海進(へいあんかいしん)※」ということばを知る必要があります。
 8~10世紀にかけて日本近海の海面が、現在より数メートルほど高かったそうです。これを「平安海進」と言います。
 まさに源平の合戦当時、ここ大島津あたりの海面は現在より高く、大きな入り江を持つ地形となっていたようです。位置から考えてもそして地形から考えても、格好の集結地であったのです。
 さらに、現在の室津半島の付け根、柳井市と田布施町に広がる平野は海底となっており、柳井水道と呼ばれていました。ちなみに、柳井市から田布施町に抜けるこの柳井水道に沿って、交易で繁栄した事を誇示する多くの古墳が存在するのは興味深いことです。
 瀬戸内海の多くの水軍が義経軍の傘下に入り、ついには源平いずれにつくか形勢を見ていた地元周防国の船奉行船所五郎正行(ふなどころごろうまさゆき)までもが三田尻(防府市)より数十艘で駆けつけ、万全の体制を整えたのです。源範頼(みなもとののりより)が九州に逃れるときに周防に残した三浦義澄(みうらよしずみ)が、3月22日、平家の動向についての最新情報を持って合流し、「これで勝てる」と感じ取った義経は、3月23日、大船団を従えいよいよ決戦の地・壇之浦に向け大島津を出発したのです。
地図

 

 

平家ゆかりの石垣が今も残る池田家(柳井市・池の浦)
平家ゆかりの石垣が今も残る池田家(柳井市・池の浦)

※「だんのうら」には、「壇ノ浦」「壇之浦」「壇の浦」など、さまざまな表記があります。

※海進…海面の上昇、あるいは陸地の沈降によって海が陸に入り込んでくること。