平成17年5月13日号(HTML版)VOL.69
山口県広報広聴課

おもしろ山口学

リレー随筆「源平壇之浦合戦の残影」 著/安冨 静夫(元下関市立下関図書館 館長)

第1回 『紅白対抗戦の原点は、関門海峡の源平合戦』

源平船合戦 秋の運動会で、最後を飾るのが「紅白対抗リレー」、そして年の瀬を締めくくるのが「紅白歌合戦」。この紅白対抗戦の原点が、関門海峡で行われた「源平最後の合戦」なのです。
 奈良時代、遣随使や遣唐使は、関門海峡を通って大陸へ渡り、進んだ文化や経済・政治の仕組みまで学んできました。その時、中国は「黄色」を重んじていました。それは、紫禁城の黄金に輝く甍(いらか)にみることができます。ところが、中国が内乱で、日本から行くことができなくなった、そのとき、日本は独自の文化を創り出すことになり、日本は、黄色ではなく「赤色」を重んじることになりました。
 この黄色から赤色への変化を、『万葉集』と『古今和歌集』にみることができます。『万葉集』では、「モミジ」を詠むとき、88首が「黄葉」、6首が「紅葉」だったのですが、『古今和歌集』になると、ほとんどが「紅葉」となり、「黄葉」はなくなります。このように、文学の上で変化を確認することができるのです。
 当時の社会を代表する平家は、この「赤」を旗印にしたのです。一方、源氏は、神が宿る「白」を旗印にしました。こうして、約1300隻もの船が、関門海峡で紅・白の旗をなびかせ、戦ったのです。これが「紅白対抗戦」の原点なのです。
 5月3日、下関では、赤間神宮で、豪華絢爛な衣裳に身を包んだ上臈(じょうろう)が、安徳天皇の神前に参拝する「先帝祭」。紅白の旗をつけた漁船が、関門海峡をパレードする「源平船合戦」が繰り広げられます。どうぞ、お出かけください。



最終回 『源平最後の合戦は、なぜ関門海峡で行われたか』

関門海峡 今から820年前(寿永4年3月24日)、源平合戦最後の場となったのが、関門海峡の壇之浦であったことは、よく知られています。
 合戦の様子は、『平家物語』などで、多彩に描かれていますが、ここでは、最後の決戦の場が、なぜ、「壇之浦」だったのかを紹介しましょう。
 平家は、博多を基点に、日宋貿易を行って膨大な利益をあげていました。清盛の弟・頼盛が大宰府に着任していたことも、そのあらわれの一つです。この交易を続けるには、関門海峡を自由に通航できる、制海権をどうしても維持しなければなりません。
 平知盛が、海峡の西入口、彦島に本陣を置いたのも、この地を確保しておかなければならなかったし、合戦に勝利して、制海権を保つことは、平家の繁栄につながることだったのです。
 幕末、英・米・仏・蘭の四国連合艦隊17隻の軍艦が来襲したのも、外国船が自由に航行できる、制海権を確保することにありました。古くから、関門海峡が幾たびも歴史に登場するのは、この制海権をいかに確保するかにかかっていたのです。