平成16年10月8日号(HTML版)VOL.55
山口県広報広聴課

おもしろ山口学

リレー随筆「山口県の風景」 著/栗林 和彦(写真家)

第1回 『維新山口の証言』

十朋亭 (撮影/栗林 和彦)
十朋亭[撮影/栗林 和彦]
 江戸時代の中期(1800年)の頃、萬代(ばんだい)家は山口で醤油の醸造業を営んだ旧家である。萬代家は勤皇志士の活動を支援し、その離れとして建てられた十朋亭(じっぽうてい)では、萩から毛利敬親(もうり たかちか)公が中河原のお茶屋に移られた文久3年(1863)以降、藩指定の仮宿として周布政之助(すふ まさのすけ)、桂小五郎(かつら こごろう)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、久坂玄瑞(くさか げんずい)、山県有朋(やまがた ありとも)など多くの志士が国事を談じた。今年の12月27日まで暫定公開される。萩、長門、山口の萩焼といわれるが、山口萩焼の祖 大和作太郎(やまと さくたろう)を山口に勧誘したのも萬代家である。

菜香亭 (撮影/栗林 和彦)
菜香亭 [撮影/栗林 和彦]
 この度移築された菜香亭(さいこうてい)は、明治維新になり藩主毛利敬親公が萩から山口に藩庁を移された明治4年、毛利藩の膳部職(ぜんぶしょく)であった斉藤幸兵衛(さいとう こうべえ)もこれに従い、八坂神社の地に創業した料亭である。井上馨(いのうえ かおる)は情趣で、斉を“菜”、幸を“香”ともじって菜香亭と命名した。井上、伊藤、桂、西郷、大久保、山県、寺内などの政治家が闊歩(かっぽ)したといわれる場の旧菜香亭は今も残像として残る。

膳部…料理を扱う人。料理人。

本文中の“山口”は、現在の“山口市付近”を指します。

菜香亭は「アートふる山口」が開催される10月2日(土)にオープンします。



第2回 『中世山口の証言』

周防四の宮 赤田神社[撮影/栗林 和彦]
周防四の宮 赤田神社[撮影/栗林 和彦]
 平安中期から鎌倉時代初期に決定された社格といわれる『周防五の宮』は、一の宮に玉祖(たまのおや)神社(防府市)、二の宮に出雲(いづも)神社(徳地町)、そして山口市内に、三の宮の仁壁(にかべ)神社、四の宮の赤田神社、五の宮の朝田神社が鎮座している。明応6年(1497)大内義興(おおうち よしおき)が武運長久祈願のため五社参りをした順路であり、神位、信仰勢力の順ではないと思う。その内の赤田神社拝殿の天井に龍の絵が描かれているが、吉敷(よしき)の画家、内藤鳳岳(ないとう ほうがく)によるもので、京都の画家、岸駒(がんく)に学んだといわれる。

長門一の宮 住吉神社 [撮影/栗林 和彦]
長門一の宮 住吉神社 [撮影/栗林 和彦]
 住吉神社(下関市)は県内の最も古い神社の一つにあげられるが、その創建は神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓出兵から凱旋の後、住吉三神の荒魂(あらみたま)他を祀っての事とある。
 大内弘世(おおうち ひろよ)は、応安3年(1370)厚東氏(ことうし)を滅ぼし防長両国を平定し、戦に当たり戦勝を祈願して本殿再建を誓い、その誓約を果たす。国宝である本殿は、社殿が5棟並ぶ様に見え、流れ造りと春日造りの持つ美しさを結集した構造美は素晴らしい。後に防長を支配した毛利元就も当社を崇敬し、現在の拝殿(重要文化財)を寄進した。
 社務所に“闘魂”とあるTシャツがあり不思議に思うが、サラリーマン風の団体が参拝する姿を見て、戦いの神様であった事を思い出した。二の宮は忌宮(いみのみや)神社(下関市)、三の宮は杜屋(もりや)神社(豊浦町)で、長門は三の宮までである。



第3回 『古代山口の証言』

花の山製錬所跡 [撮影/栗林 和彦]
花の山製錬所跡 [撮影/栗林 和彦]
 美東町の長登銅山は、日本最古の銅山といわれ、奈良時代から採掘が始まったとされている。聖武天皇(天平時代)の時には天変地異、飢餓や天然痘が世に広まり、天平15年聖武天皇は政情を鎮めるため大仏建立を発願し、国中の銅を集めることを国民に要請したとある。この地が国直轄の採銅所であったことは、木簡(木札に文字などを書き記したもの)の出土により証明されている。
 奈良の大仏の銅を献上するための銅山として、奈良登り(ならのぼり)がなまって長登り(ながのぼり)になったともいわれる。

長登銅山大切4号坑 [撮影/栗林 和彦]
長登銅山大切4号坑 [撮影/栗林 和彦]
 古代の採掘跡の大切山(おおぎりやま)には、狸穴(まみあな)状の坑口が30カ所あり、坑内が複雑につながっていて、山全体が蟻(あり)の巣状態になっているといわれる。その中で大切4号坑のみ見学することが可能であり、現在のような機材のない時代に、これほどまでの作業を可能にした仕事を見ると、犠牲者のことを思う。