平成16年5月28日号(HTML版)VOL.46
山口県広報広聴課

 
おもしろ山口学
 
 
リレー随筆 「歴史街道 萩往還」 著/内田 伸(山口市歴史民俗資料館 名誉館長)
 
 
第1回 『一の坂の六軒茶屋』

一の坂 六軒茶屋跡
一の坂 六軒茶屋跡
一の坂 六軒茶屋の復元家屋
一の坂 六軒茶屋の復元家屋
 江戸時代、毛利氏は萩に居城を構え、街は城下町として大いに栄えました。山陽側の三田尻(みたじり)からこの萩へ続く道を萩往還といいます。この道は藩主の参勤交代の道でもあり「お成り道」ともいわれていました。瀬戸内海に面する三田尻港から萩までの距離は12里(1里は4キロメートル)といわれていますが、現在正確に測ると52.7キロメートルあります。周防・長門(すおう・ながと)では「お成り道」として一番大事な道でしたが、中央に標高530メートルの板堂峠(いたどうとうげ)などがあり、道は相当険しいところがあります。山口側から峠へ登る坂は、この道で一番険しい坂となっており「一の坂」と名が付いたといわれています。
 萩往還の道幅は2間(4メートル)と規定されていましたが、明治以降は通る人も少なくなり、道は荒れて狭まってしまいました。近年「歴史の道 萩往還」として整備され、道幅も4メートルに戻り、石畳などが昔のように復元されました。
 一の坂の途中に六軒茶屋という所があります。江戸時代には茶屋があり、旅人はここで一休みしました。参勤交代の殿様も駕籠(かご)から出て休憩される部屋が設けられていました。現在それらの建物も復元されており、昔をしのぶことができます。
 


 
第2回 『シルバー・ロード』

板堂峠頂上の防長国境の碑
板堂峠頂上の防長国境の碑
一の坂銀山の間府
一の坂銀山の間府
 板堂峠(いたどうとうげ)の頂上には、周防・長門(すおう・ながと)の国境の碑が建っています。この碑の近くにある「21世紀の森」の施設から東北側の谷に下ると、斜面に広い範囲にわたって、銀鉱間府(まぶ)が点在しています。今はっきりしている間府は20数基ですが、慶長19年(1614)に毛利藩が幕府に出した書類を見ると「坑夫は5,000人もいて、間府は200余ある。小屋数は3,000軒ある」とありますから、鉱山の盛んであった頃はこの山中に数千人の人が住みつき、生活をしていたとわかります。
 一の坂銀山はいつ頃から開発されたか不明ですが、大内氏時代頃ではないかと思われます。今から500年ばかり前のことです。大内氏はこの銀を使い、大陸の明や朝鮮と交易をし、多くの文物を移入し、大内文化の花を咲かせました。大内氏の後を継いだ毛利氏も、この銀山の経営に努力をしましたが、寛永16年(1639)頃には銀脈も尽き、消滅してしまいました。
 毛利氏が萩に城を築き、城下町をつくった慶長の頃の銀山は、たいへん栄えて銀の産出も多く、この銀が萩の築城や町づくりに大いに役立ったと考えられます。そうすると萩往還は一の坂銀山の出入口を通過していて、銀山の交通路でもあったので、“シルバー・ロード”ともいうべき道でした。

※間府(まぶ)・・・ 鉱山で、鉱石を取るために掘った穴。坑道。
 


 
第3回 『松陰遺跡 夏木原(なつきはら)』(全3回)

 萩往還は殿様の参勤交代の道として、防長(ぼうちょう)では山陽道よりも重要視されていました。しかし萩を出て山口まではほとんど山道で、上り下りの坂も多く大変でした。
 参勤交代の行列はどの位の規模だったのでしょうか。資料によると、貞享元年(1684)に毛利吉就が江戸から初めて入国した時は1,663人という大行列でした。一方、宝暦2年(1752)に毛利重就が江戸から入国の時は564人とあります。このように行列の人数は時によって変わりますが、普通1,000人前後の規模であったようです。このような大人数がこの山中の街道を越えたのですから、そのにぎわいは大変だったろうと想像されます。
 このようなにぎわいとは対照的に、吉田松陰が安政の大獄に連座し、唐丸籠(とうまるかご)に乗せられ江戸へ送られたのは、安政6年(1859)5月25日のことでした。それは数人の旅でした。門人たちと萩の町外れで別れ、五月雨(さみだれ)の降る肌寒い中を、長門国と周防国との国境近くの夏木原へ向かい、一行はそこで一休みしました。松陰は籠から出ることはできませんでしたが、外の景色を見て詩を口づさみ、護卒にそれを筆記させました。
 ここで長門国と別れた松陰は、再びこの萩往還を帰ることはありませんでした。