平成15年10月10日号(HTML版)VOL.31
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おもしろ山口学

リレー随筆  「中原中也」著/福田百合子(中原中也記念館 館長)

中原中也記念館ホームページ

第1回『中原中也の生い立ち』

 詩人中原中也(なかはら ちゅうや)は、1907年4月29日山口市湯田温泉(現在中原中也記念館が建っている場所)で生まれました。軍医の父謙助と母フクの長男です。養祖父も開業医でしたから、当然のように、医者になると期待され、教育されました。
 幼稚園は父の転勤にともない、広島、金沢と変わりましたが、小学校は地元の下宇野令小学校(現・湯田小学校)へ入学。後に師範付属小学校・山口中学校に通います。成績優秀だったのですが、途中で文学に熱中、遂に落第。京都立命館中学に転校。
 ここで、詩について学ぶきっかけとなる友人や恋人との運命的な出会いがありました。その後、恋人長谷川泰子と共に上京。恋人が友人小林秀雄の下に去ってからも、お互いの交流は続いて、さまざまな人間関係や創作活動の契機になったのです。
 小・中学校時代の初期短歌から出発し、共著歌集「末黒野(すぐろの)」の出版。東京ではまず翻訳詩集として、ランボーの作品を3冊刊行しました。第1詩集「山羊の歌」は彫刻家高村光太郎の題字・装幀。200部限定ながら見事な出来映えで評判となりました。
 山口市在住の遠縁に当る上野孝子と結婚。男児2人にも恵まれたのですが、長男文也の突然の死に衝撃を受け神経衰弱となり千葉寺の中村病院へ入院。退院後鎌倉へ転居。1937年10月病没。結核性脳膜炎。享年30才。
 死後第2詩集「在りし日の歌」出版。次男愛雅も死亡。墓は市内吉敷「中原家累代之墓」、文字は、中也の筆によるものです。他に詩碑は市内に3基。長門峡に1基あります。
 
 


第2回『中原中也の詩と山口』

 第1詩集『山羊の歌』に収録された初期詩篇中の作品「帰郷」の一節が有名です。友人小林秀雄の筆によって、市内湯田温泉高田公園の詩碑にも刻まれました。

  これが私の故里(ふるさと)だ
  さやかに風も吹いてゐる
  あゝ おまへはなにをして來たのだと・・・
  吹き來る風が私に云ふ

 中也の歌う春風や秋の日射し、田んぼや雲雀(ひばり)や山の木々には、常にふるさとの風土が反映されているのではないでしょうか。
 第2詩集『在りし日の歌』の中の「一つのメルヘン」の舞台は、中原家墓地横の吉敷川(別名水無川)といわれています。

  秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
  小石ばかりの、河原があつて
  それに陽は、さらさらと
  さらさらと射してゐるのでありました。

 さらさらという繰返しが、透明な空気まで伝えてくれるようです。同じ場所を未刊詩篇中の「蝉(せみ)」では

  それは中国のとある田舎(ゐなか)の、水無河原(みづなしがはら)といふ
  雨の日のほか水のない
  伝説付の川のほとり、
  藪蔭(やぶかげ)の砂土帶(さどたい)の小さな墓場、

と、より具体的に描いています。
 他に山口市郊外小鯖の鳴滝を歌ったとされる「悲しき朝」の作が詩碑に刻まれました。
 景勝地で知られる長門峡(阿武郡)には、絶唱「冬の長門峡」の詩碑もあります。

 
 


最終回『中原中也記念館』

 中原中也記念館は、平成6年2月に現在地にオープンしました。場所は湯田温泉、旧中原病院跡地です。中也が生れ育った場所ですから、ここへ来ると、中也と同じ風に吹かれ、光を感じることが出来ると喜ばれる来館者も多いのです。
 建物は鉄筋コンクリート打ちっ放しのセメント肌なのですが、円型と方型の組合せがユニークで、設計者宮崎浩氏は、この建築で、新日本建築協会賞を受けられました。更に平成10年には、内部のデザイン(例えば木組みのあたたかみなども含めて)や地域社会への貢献度が評価され、公共建築百選に選ばれてもいます。展示物は勿論ですが、全体の雰囲気を楽しめるのが有難いとおっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。
 前庭のカイズカイブキは、中原医院(湯田医院とも)創立当時からの樹齢を誇り、幹も枝ぶりもどっしりと見事です。アプローチ正面に、中也青年期の影像、丸帽子・長髪の顔写真を拡大、ライトアップ、館内への導入部となっています。
 テレビ放映、音楽、ファンタビュー(映写と詩朗読)など鑑賞に役立てていただけます。(資料についてはパソコン検索が可能。)
平成16年2月には開館10周年を迎えるため、内装と展示については全面リニューアル予定(平成15年12月1日から翌年2月21日まで休館)。休館中は記念館中庭を開放し、仮設展示パネルを設置するとともに、湯田温泉観光案内所には中也の詩を紹介する映像装置を臨時設置します。